「ありとあらゆる病気や患い」(マタイ9章35節)に苦しみ弱り果てても助けが得られない人々のことを、イザヤ42章3節(マタイ12章20節)は「傷ついた葦」「くすぶる灯心」等と表現し、彼らを力づける「主の僕(しもべ)」をイザヤは預言したが、マタイ12章17節ではイエスがそれだと記す。
注)別エントリー「試論:『主の僕(しもべ)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8849
(注)別エントリー「試論:『主の僕の忍耐』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6462
(注)別エントリー「試論:『神の小羊』=『主の僕』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8876
【追記】
古代のギリシア語イザヤ50章6節は「わたしは鞭打つ者に背中を、平手打ちする者に頬を向け、なお嘲りと唾からも顔をそむけることがなかった」と記し、この節をマタイ5章39章の主の仰せそして御受難の際(マルコ14章〜15章)の主の御苦しみと御振舞いに、最も近いニュアンスで、解釈している。
(注)別エントリー「試論:御受難の際の主の模範を140文字以内で」も参照のこと。
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主はヨハネ12章23節で「人の子が栄光を受ける時が来た」と仰せになった。御受難(十字架上の死)によって多くの人々に永遠の命をもたらし(24節〜25節)「死を永久に滅ぼす」(31節、イザヤ25章8節、一コリント15章54節、ヘブライ2章14節以下、コロサイ1章20節等)ためである。
(注)別エントリー「試論:『自分の命を憎む人』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9419
ヨハネ12章27節「わたしはまさにこの時(=御自身がゴルゴタにおいて十字架上に『上げられる<高い所に掲げられて顕示される>』御受難の時)のために来た」マタイ20章28節、マルコ10章45節「人の子は、多くの人々の身代金(=あがない)として、自分の命を献(ささ)げるために、来た」。
(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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