試論:「聞き分ける」を140文字以内で

主はヨハネ10章で「わたしは良い羊飼い」と仰せになり、27節で「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」と仰せになったが、同節で「彼らはわたしに従う」、続く28節では「わたしは彼らに永遠の命を与え、彼らは決して滅びない」と御説明され、実際に主の御言葉に従順であることが求められている。

【追記】

ローマ3章でパウロは、「信仰」「律法」という表現で実際は、

《イエス・キリストを信仰する人々にとっての新しい掟=愛の掟》と、

《イエスを認めぬ人々の古い掟=律法の掟》を比較した。

人間を「義」とするのは《律法の掟》の実行ではなく、信仰に基づく《愛の掟》の実践(ガラテヤ5章6節)による。

(注)別エントリー「試論:『新しい掟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7016

「行いではなく信仰」とは「主イエスを信仰しているのならば、モーセの律法に従って割礼その他の行いを実行しているユダヤ人だけでなく、律法を知らず律法に従う行いとは無縁の異邦人も」の意味で、「信じてさえいれば、日頃の行状は問われない」と曲解する後世の人々を正当化するものでは決してない。

エフェソ4章の後半以降(17節以下)では、洗礼を受けた人が取るべき(また避けるべき)態度を教える。悪態をつき、無慈悲で、平然と悪口を言い、思う通りにならないと大声で喚き、怒鳴り散らし、相手が幼子や女性だと小馬鹿にして勝ち誇る人がいたとして、誰が彼のことを信者だなどと思うだろうか?

ヤコブ2章17節「行いを伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」はマタイ7章26節の主イエス・キリストの御言葉「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」とは内容的には同じであり、いわゆる「信仰義認」の適不適を考える上では良い基準となる。

マタイ7章21節の主の御言葉「わたしに向かい『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」の「主よ」という呼び掛けは、当然、25章44節「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、〜」という箇所とは内容的に直結しており、信仰義認の適不適を判断する良い基準である。

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」7章21節「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心(=神の義)を行う者だけが入る」23節「不法を行う者ども、あなたたちのことなどわたしは全く知らない。わたしから離れ去れ」。

(注)別エントリー「試論:『神は誰を選ばれるのか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8051

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」の《選ばれない理由》をイザヤ65章12節は「呼んでも答えず、語りかけても聞かず、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの喜ばないことを選んだからである」と記した。「笛を吹いたのに踊ってくれなかった」(マタイ11章17節)。

イザヤ59章2節「あなたたちの悪こそが、神とあなたたちの間を隔て、あなたたちの罪こそが、神の御顔を隠させ、神があなたたちに耳を傾けられるのを妨げている」ヨハネ14章24節「本当はわたしのことなど愛してはいない者は、決して御父とわたしの言葉や掟を受け入れはせず守ろうなどとしない」。

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」ルカ13章23節「救われる者は少ないのですか」27節「不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」マタイ6章33節「神の国と神の義を求めなさい」ヨハネ14章23節「わたしを愛する者はわたしの言葉を守り父とわたしはその人と住む」。

主はマタイ7章26節で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てる人に似ている」と教えられた。22章14節「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」とは、《わたしの教えを耳にしたことのある者は多いが、それを真摯に受け止めて日々実践している者は少ない》という意味である。

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『主の祈り』と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7047

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

二テモテ3章でパウロは「終わりの時」の人々の姿を記した。自分本位で金銭を愛し、嘘をつき、神を畏れず嘲り、両親に従わず、恩知らずで、他人を侮り、情け容赦なく、強情で、中傷し、節度がなく、残酷で、善を行わず、裏切り、軽率かつ高慢、信仰を装いつつ実際は快楽を愛し、事実上は棄教している。