主イエスはヨハネ14章30節で「世の支配者」に言及されたが、その者はルカ4章6節で主に対し、自分なら全世界の権力と繁栄の一切を与えられると豪語した。ヨハネ16章33節における主の仰せ「わたしは既に世に勝っている」は、荒れ野で「世の支配者」からの誘惑を全部はねのけたことを示唆する。
(注)別エントリー「試論:『この世の支配者』って?を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
主はヨハネ12章24節で「一粒の麦もし死なずば」の一節の前に、ギリシア語本文では二度「アーメン」と口にされた。通常この箇所は「まことにまことに」「よくよく」「はっきり」等と訳されるが、主はこうなさることで、そこが御教えの核心部分だと示された(31節及びコロサイ1章20節等参照)。
主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。
(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。
マルコ福音書は主の御降誕には触れないものの、6章3節で主イエスには母親がいたことを記し、10章45節では主の到来の目的の一つが「多くの人の身代金として自分の命を献(ささ)げる」つまり贖(あがな)いのためと記す。パウロもガラテヤ4章で母親の存在(4節)と贖い(5節)とに触れている。
ヨハネ1章14節は神の御独り子が「肉」となられたと記す。「肉」は創世記6章で人間を指す語だが道徳的な脆さのニュアンスも含む表現であり、それゆえ悪魔が誘惑を試みた。誘惑の後、天使たちがイエスに仕えたが天使は本来単なる人間には仕えない。主イエスは神のままで人間としての全てを担われた。
古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。
主はヨハネ12章23節で「人の子が栄光を受ける時が来た」と仰せになった。御受難(十字架上の死)によって多くの人々に永遠の命をもたらし(24節〜25節)「死を永久に滅ぼす」(31節、イザヤ25章8節、一コリント15章54節、ヘブライ2章14節以下、コロサイ1章20節等)ためである。