(以下、聖書の日本語訳は、基本的にはフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』〔サンパウロ〕によりますが、必要に応じて他の日本語訳も適宜、引用します)
紀元七〇年に起こった、エルサレムと第二神殿の滅亡の際の光景を、それから三百年以上後のあるキリスト教の歴史家は、次のように書き記した。
◯スルピキウス・セウェルス『世界史』二・三〇・三
「そのうちユダエア人は包囲網の中に完全に封じ込まれ、平和や降伏を求める機会を全く与えられなかったので、最後に餓死した。道路は至る所死体で埋もれ始めた。」
「人々はもう埋葬の義務を断念していたからである。のみならず、食物についても、思いきって忌わしいものまでことごとく試み、このような食物のうち、腐敗が食べる切っ掛けを奪っていたものを除き、人の肉体すら食べるのを憚(はばか)らなかった。」
(タキトゥス『同時代史』國原吉之助訳〔ちくま学芸文庫〕407ページ)
著者のスルピキウス・セウェルスに関して上掲書410ページには次のようにある。
「三六〇年頃アクィタニアに生まれたキリスト教歴史家。彼の『世界史』Chronicaはアダムからコンスタンティヌス大帝までの世界史を対象とし、全作がキリスト教の観点からの簡潔な展望であるが、イェルサレムの破壊はタキトゥスに拠り、文体も模倣しているといわれる。」
【解説】
◯マタイによる福音書24章15節~16節
「預言者ダニエルによって言われた『荒廃をもたらす憎むべきもの』が聖なる場所に立つのを見たなら、──読者は悟れ──その時、ユダヤにいる人は山に逃げなさい。」
ダニエル書9章の預言に登場するこの「荒廃をもたらす憎むべきもの」が、主イエス・キリストによって再び問題にされたということは、ダニエル書の預言がマカバイ記の時代に全て成就したわけではなかったことを意味している。マカバイ時代から約二百年を経て、主イエス・キリストは再び「荒廃をもたらす憎むべきもの」と次に示す神殿の滅亡とを、マタイ24章で話題にされているのである。
フランシスコ会聖書研究所訳マタイ24章15節の「荒廃をもたらす憎むべきもの」は、新共同訳では「憎むべき破壊者」、バルバロ訳では「<荒らす者のいとわしいもの>」、ラゲ訳では「『いと憎むべき荒廃』」、日本聖書協会口誤訳では「荒らす憎むべき者」などの表現で訳されている。これは下記のマルコ13章14節の場合も同様である。当時のユダヤ世界において「聖なる場所」と言えばエルサレムの神殿、とりわけその聖所に他ならない。従って、マタイ24章15節が予告している出来事が起こるのは、ローマ帝国軍によるエルサレム神殿滅亡(紀元七〇年)以前ということになる。なぜならローマ軍による聖所の占領以前に、既にエルサレムの町は破壊し尽くされており、ローマ軍の神殿占拠を目撃した後では、山に逃げるタイミングとしては遅過ぎるのである。それゆえ、「荒廃をもたらす憎むべきもの」あるいは「憎むべき破壊者」とはローマ軍のことではなく、それ以前に神殿の聖所を占拠していた別の何かということになる。
◯マルコによる福音書13章14節
「さて、『荒廃をもたらす憎むべきもの』が立つべきではない所に立つのを見たなら、──読者は悟れ──その時、ユダヤにいる人は山に逃げなさい。」
紀元六六年に勃発したユダヤ人のローマ帝国への大反乱において、前線から首都エルサレムに撤退した敗残兵たちは地方から都に流れ込んで来た無法者たちと結託して武装勢力を形成、神殿の聖所を占拠してそこを根城にエルサレム市民たちに対し虐殺や略奪など暴虐の限りを尽くし、また先祖伝来の律法に背く行為を市民たちに強要した。当初は武装勢力を自分たちの守護者と見なしていたエルサレム市民は、こんなことならばローマ軍の手に落ちた方がよほどましだと考えて、城外への脱出を試みる者たちが続出した。マルコ13章14節の「立つべきではない所」とは、マタイ24章15節の「聖なる場所」と同様に神殿の聖所を意味している。
◯ルカによる福音書19章28節、41節~44節
「さて、イエスはこれらのことを語り終えると、先頭に立って、エルサレムへ上って行かれた。」
「都に近づき、イエスは都をご覧になると、そのためにお泣きになって、仰せになった、『もしこの日、お前も平和をもたらす道が何であるかを知ってさえいたら……。しかし今は、それがお前の目には隠されている。いつか時が来て、敵が周囲に塁壁を築き、お前を取り囲んで、四方から押し迫る。そして、お前と、そこにいるお前の子らを打ち倒し、お前のうちに積み上げられた石を一つも残さないであろう。それは、訪れの時を、お前が知らなかったからである』。」
◯ルカによる福音書21章20節~24節
「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいているのを悟りなさい。その時、ユダヤにいる人は山に逃げなさい。また、都にいる人はそこを立ち去り、地方にいる人は都に入ってはならない。それは、書き記されていることがすべて成就される、報復の時だからである。それらの日に、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸である。地上には深い苦悩が、この民の上には神の怒りが臨むからである。人々は剣の刃に倒れ、捕虜となって、あらゆる国に連れていかれる。そして、異邦人の期間が満たされるまで、エルサレムは異邦人に踏みにじられる。」
「軍隊」はルカ19章43節の「敵」と同様にローマ軍に他ならないが、ローマ軍がエルサレムを包囲した時点で神殿の聖所を占拠していたのは、無法集団と化していたエルサレム市内の武装勢力であった。よってマタイ24章15節やマルコ13章14節との比較から、この無法集団こそが「荒廃をもたらす憎むべきもの」「憎むべき破壊者」ということになる。エルサレム市内において無法集団は、略奪や暴行そして虐殺また放火にいたるまであらゆる悪事をほしいままにしていた。
ルカ福音書のこれらの引用箇所では紀元七〇年のエルサレム滅亡について語られている。ルカ19章44節の「訪れ」とは「主の来臨」に他ならない。さらにルカ21章21節において主イエス・キリストは、エルサレムが包囲されようとしている時にはその都を脱出すべきであると警告され、また地方にいる人々は山に逃げるべきでエルサレムがいかに堅固な都であろうとそこに入って籠城すべきではないとも警告された。
そしてルカによる福音書21章22節には、「それは書き記されていることがすべて成就される、報復の時だからである。」とあり、ここにおいて主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡(紀元七〇年)をもって旧約聖書の預言が全て成就し、旧約時代──すなわち、エルサレム神殿の時代が完全に終焉を迎えることを、明らかにされた。
(新共同訳では「書かれていることがことごとく実現する報復の日」、バルバロ訳では「書き記されているすべてのことの実現する報復の日」、ラゲ訳では「これ刑罰の日にして、書きしるされたること、すべて成就すべければなり」、日本聖書協会口語訳では「聖書にしるされたすべての事が実現する刑罰の日」の表現である)
ルカ21章23節には「地上には深い苦悩が、この民の上には神の怒りが臨む」という主イエス・キリストの御言葉があり、当然この箇所は、マタイ24章21節やマルコ13章19節に対応しているが、プロテスタントの文語訳聖書である『改訳 新約聖書』(1917年)においては、ルカ21章23節の同じ箇所を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳しており、ある人々がいわゆる「大艱難時代」「大患難時代」などと呼んでいる時期が実は第二神殿滅亡の前後に他ならないことを、既に暗示している。
なお、聖書における「地上」という表現の「地」とは、文脈によってはルカ4章25節やローマ9章28節やヤコブ5章17節などの場合と同様、古い契約(旧約)における神の民の居住地(居住範囲、居住領域)すなわち、ユダヤ世界を指す場合がある(ダニエル9章6節やバルク1章9節も参照)。黙示録18章24節の「預言者たちや聖なる人々の血、地上で殺されたすべての者の血が、この都で流されたからである」の「この都で」と日本語訳されている箇所のギリシア語原文は「彼女において(εν αυτη – en autē)」という表現であるが、この場合の「~において」は地理的な所在地というよりは、責任の所在(マタイ23章35節~37節やルカ11章50節~51節や黙示録16章6節などを参照)を意味している。そしてルカ21章23節「地上には深い苦悩が」の「地上」も、文脈からはユダヤ世界を指している。
◯マタイによる福音書21章12節~13節
「イエスは神殿の境内にお入りになった。そして境内で物を売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の机や、鳩を売っている者たちの腰掛けを倒された。そして、彼らに仰せになった、『《わたしの家は祈りの家と呼ばれる》と書き記されている。それなのに、あなた方はそれを強盗の巣にしている』。」
◯エレミヤ書7章2節~3節、11節
「主の神殿の門に立ち、そこでこの言葉を告げよ。そして、言え。主を礼拝するために、これらの門を通っていくユダの人々よ、みな、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう仰せになる。お前たちの道と行いを改めよ。」
「わたしの名によって呼ばれるこの家が、お前たちの目には盗賊の巣と見えるのか。見よ、わたしにもそう見える──主の言葉。」
エレミヤ書7章では11節で神殿(第一神殿)をまさに「盗賊の巣」と呼んだ上で、12節以下で神殿の滅亡について預言されている。そして主イエス・キリストも、エルサレム入城の後、神殿(第二神殿)を「強盗の巣」と呼んだ上で(マタイ21章13節、マルコ11章13節、ルカ19章46節)、神殿の滅亡について予告された(マタイ24章3節、マルコ13章2節、ルカ21章6節)。その予告は紀元七〇年に現実のものとなった。エレミヤ書7章12節に登場する「シロ」は、かつては「会見の幕屋」すなわち神殿が建てられていた土地であった(ヨシュア記18章)。しかし、サムエル記上の最初の四つの章にある通り、当時イスラエルを裁き治めていた祭司エリの息子たちの悪行に感化されてイスラエルの民のあいだに悪がはびこり、やがてペリシテ人の侵攻を受けて壊滅的な打撃を蒙ることになった。主イエス・キリストの言葉には大祭司(祭司長)たちの一族の行いを告発するニュアンスも、当然ながら含まれている。
◯エレミヤ書7章12節~15節
「シロにあるわたしの場所、かつてわたしの名をそこに住まわせた所に行き、わたしの民イスラエルの悪の故にわたしがそこに対して行ったことを見よ。さて、お前たちはこれらのことをすべて行い──主の言葉──、わたしがお前たちに語り、何度となく語ったのに聞かず、呼び掛けたのに応えなかった。それ故わたしは、わたしの名によって呼ばれ、お前たちが信頼しているこの神殿に、また、お前たちとお前たちの先祖に与えたこの所に、シロに対して行ったように行う。わたしはお前たちの兄弟、エフライムの子孫のすべてを放り出したように、お前たちをわたしの前から放り出す。」
15節の「お前たちの兄弟、エフライムの子孫のすべてを放り出した」という部分は、サマリアの陥落(列王記下17章)を指している。
◯マルコによる福音書11章15節~17節
「イエスは神殿の境内に入り、そこで売買をしている人々を追い出し始め、両替人の机や、鳩を売っている人たちの腰掛けを倒し、また誰にも境内を通って品物を運ぶことをお許しにならず、人々に教えて仰せになった、『わたしの家はすべての民族のための祈りの家と呼ばれる』と書き記されているではないか。ところが、あなた方はそれを強盗の巣にしてしまった』。」
◯ルカによる福音書19章45節~46節
「それから、イエスは神殿の境内にお入りになり、商売をしていた人々を追い出し始め、彼らに仰せになった、『《わたしの家は祈りの家でなければならない》と書き記されている。それなのに、あなた方はそれを強盗の巣にしてしまった』。」
◯ヨエル書3章3節~6節
「わたしは天と地に不思議な徴を現す。血と火、そして煙の柱である。偉大な、恐るべき主の日を前にして、太陽は闇(やみ)と化し、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。それは主が仰せになったように、シオンの山とエルサレムに救いがあるからだ。主が呼ばれた残りの者たちのうちにも。」
この箇所においては、「恐るべき主の日」において、(地上の)エルサレムにいる者で救われるのは、ただ「主の名を呼ぶ者」のみであることが、預言されている。
◯ヨハネの黙示録6章12節~17節
「小羊が第六の封印を解いたとき、わたしは見た。激しい地震が起こり、太陽は毛織りの粗布(あらぬの)のように黒くなり、月は全面血のようになった。天の星は地上に落ちた。それはあたかも、いちじくが大風に煽(あお)られて、その青い実を振り落とすようであった。天は巻物が巻かれるように消え失せ、山と島はことごとくその場所から移された。地上の王、高官、千人隊長、富豪、権力者、そして、すべての奴隷と自由な身分の者も、洞穴(ほらあな)や山の岩間に身を隠した。そして、もろもろの山や岩に向かって言った、『わたしたちの上に倒れて、玉座に座っておられる方の顔から、また小羊の怒りからわたしたちを隠してくれ』。あの方々の怒りの大いなる日が来たからである。誰がそれに耐えられようか。」
黙示録6章の12節以降がエルサレム(および第二神殿)の滅亡と強く関連していることは、前掲のヨエル書3章との関連でも明らかである。15節の「洞穴や山の岩間に身を隠した」という表現は、既に何世紀も昔に預言者イザヤがユダ王国と都エルサレムについて受けた啓示を、想起させるものである。
◯イザヤ書2章1節、10節~11節、19節、21節
「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて啓示されたこと。」
「岩の間に入り、塵(ちり)の中に隠れよ。主の恐ろしさとその威光の輝きを避けて。その日には、人間の高ぶる目は低くされ、人の慢心は卑しくされ、主ただひとり、高く上げられる。」
「主が立って、地を揺り動かされるとき、人々は、主の恐ろしさとその威光の輝きを避けて、岩場の洞窟(どうくつ)、塵の穴に入る。」
「主が立って地を揺り動かされるとき、人々は主の恐ろしさとその威光の輝きを避けて、岩場の洞穴、崖(がけ)の裂け目に入る。」
聖書の中には、「洞穴」に関する記述が少なくない。イスラエルは洞穴が非常に多く見られる風土であるが、イザヤ書2章のこれらはまさに「ユダとエルサレムについて」の「啓示」である。
◯エレミヤ書4章29節
「騎兵と射手(いて)の叫びの度にすべての町の人々は逃げ去り、彼らは洞穴に入り、茂みに隠れ、岩に登る。すべての町は放棄され、一人としてそこに住む者はない。」
実際に、紀元七〇年のエルサレム滅亡の際、エルサレムを支配していた武装勢力の指導者たちは、自分たちだけは生き延びようとエルサレム城外へ通じる秘密の地下通路に逃げ込んだ。黙示録6章15節「地上の王」を「ユダヤ世界の王」と解釈すると、ローマ帝国側は武装勢力の指導者の一人シモン・バル・ギオラのことをユダヤ側の「王」と見なしていたが、このシモン・バル・ギオラもやはり地下通路で逃亡を図るも成功せず、結局はローマ軍に投降し、処刑された。
ローマ帝国でネロ皇帝に対する反乱が起こり、ネロの自殺後ローマ帝国が内戦状態に入り、ローマ軍の脅威がいったん去ったかのように見えると、三派が割拠した状態でエルサレムを支配していた武装勢力は、市民たちをも巻き込んで血で血を洗う内部抗争を展開した。
大反乱の時期のエルサレムにおいては、それぞれの武装勢力各派が敵対する勢力の支配地域を攻撃する際、穀物市場に放火して小麦だろうと大麦だろうと焼き払う、という蛮行が行なわれていた。
ユダヤ人の歴史家ヨセフスやローマ人の歴史家タキトゥスが、大反乱の時期のエルサレムで大量の穀物が焼き払われていたことを書き残しており、さらにユダヤの伝承の集大成であるタルムードにおいてまでも、武装勢力がエルサレム市民を対ローマ戦争に駆り立てる目的であえて小麦や大麦を焼き払って見せたことが記録されている。
◯ヨハネの黙示録6章5節~6節
「小羊が第三の封印を解いたとき、わたしは第三の生き物が『出てこい』と言うのを聞いた。そして、わたしは見た。見よ、一頭の黒い馬が現れた。それにまたがっている者は、手に天秤(てんびん)を持っていた。そして、わたしは四つの生き物の中から出る声のようなものが、こう言うのを聞いた、「小麦一升は一デナリオン、大麦三升は一デナリオン、オリーブ油とぶどう酒には害を加えてはならない』。」
最終的に、滅亡を前にしたエルサレムは深刻な食糧不足に苦しむこととなった。
本来、エルサレムには数年の籠城でも持ち堪えられるほどの莫大な量の穀物が備蓄されていたはずだったが、武装勢力同士の内部抗争による放火で穀物の大部分が灰燼に帰してしまっており、またユダヤ各地からのあまりにも膨大な数の避難民をエルサレムが収容してしまっていたため、ローマ帝国軍がひとたびエルサレムを包囲して兵糧攻めの構えに入ると、物流が完全に途絶えてしまったエルサレムは、ほどなく大飢饉に陥った。
そして、紀元七〇年のエルサレム及び第二神殿の滅亡の後、三百年以上過ぎてから一人のキリスト教の歴史家が、真の意味での「大艱難時代」「大患難時代」において、実際の戦闘行為よりもある意味では残酷な出来事が起こったことを、次のように書き記した。
◯スルピキウス・セウェルス『世界史』二・三〇・三【再掲】
「そのうちユダエア人は包囲網の中に完全に封じ込まれ、平和や降伏を求める機会を全く与えられなかったので、最後に餓死した。道路は至る所死体で埋もれ始めた。」
「人々はもう埋葬の義務を断念していたからである。のみならず、食物についても、思いきって忌わしいものまでことごとく試み、このような食物のうち、腐敗が食べる切っ掛けを奪っていたものを除き、人の肉体すら食べるのを憚(はばか)らなかった。」
「都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。」(ルカ21章21節〔新共同訳〕)という、主イエス・キリストの御言葉の持つ意味をあらためて深く考えさせられる、まさに大惨事、大艱難(大患難)であった。
そして黙示録6章は、上で引用した箇所から次のように続いている。
◯ヨハネの黙示録6章7節~8節
「小羊が第四の封印を解いたとき、わたしは第四の生き物が『出てこい』と言うのを聞いた。そして、わたしは見た。見よ、一頭の青白い馬が現れた。それにまたがっている者の名は『死』であり、その後ろには陰府(よみ)が従っていた。彼らには、剣(つるぎ)と飢饉(ききん)と死病と地上の野獣によって、地上の四分の一の人々を殺す権力が与えられた。」
黙示録6章8節の記述を目にした(耳にした)紀元一世紀後半のユダヤ人キリスト教徒の多くは、次の瞬間にはエゼキエル書14章の次の箇所を連想したに違いない。
◯エゼキエル書14章21節~23節
「まことに、主なる神は仰せになる。剣、飢饉、獰猛(どうもう)な獣(けもの)、疫病という四つのきびしい裁きをエルサレムにもたらし、その地の人間と獣を滅ぼす時はなおさらである。しかし、そこには必ず生き延びる者を残しておく。息子や娘たちは救い出され、お前たちのもとへ帰ってくる。お前たちは彼らの歩みと行いを目にして、わたしがエルサレムにもたらした災い、そこにもたらした出来事のすべてに慰めを見出(みいだ)す。お前たちは彼らの歩みと行いを目にして、彼らによって慰めを得る。その時、わたしがわけもなくその地に災いをもたらしたのではないことをお前たちは知るだろう──主なる神の言葉。」
ただし黙示録6章8節もエゼキエル書14章21節も、その「おおもと」となる言い回しは、既に申命記32章における「モーセの歌」の中に存在していた。これもまた、紀元一世紀後半のユダヤ人キリスト教徒にとっては、もとより熟知していた箇所であろう。
◯申命記32章23節~25節
「わたしは、彼らの上に災いを増し加え、わたしの矢を彼らに向けて射尽くす。彼らは飢えて痩せ衰え、熱病と激しい疫病で滅びる。わたしは野獣の牙(きば)を、地を這うものの猛毒とともに彼らに送る。外では剣(つるぎ)が殺し回り、家の内では恐れが、若い男にも女にも、乳飲み子にも白髪の老人にも等しく襲いかかる。」
一方、レビ記26章には次のように書かれている。
◯レビ記26章3節~5節、6節~7節、14節~16節
「もしお前たちがわたしの掟(おきて)に従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行うなら、わたしはお前たちに季節に応じて雨を降らせる。大地はその産物を生じさせ、畑の木はその実を結ぶであろう。お前たちの脱穀作業はぶどうの収穫まで続き、ぶどうの収穫は麦の種(たね)蒔(ま)きまで続くであろう。お前たちは飽きるほどのパンを食べ、お前たちの土地に安心して住むであろう。」
「わたしはこの地に平和を与える。お前たちは何も恐れることなく眠るであろう。またわたしは悪い獣(けもの)をこの地から取り除く。剣(つるぎ)がお前たちの土地を通り過ぎることはないであろう。」
「しかし、もしお前たちがわたしに聞き従わず、これらのすべての命令を行わないなら、また、もしお前たちがわたしの掟を拒み、お前たち自身がわたしの定めを忌み嫌い、わたしのすべての命令を行わず、わたしの契約を破るなら、わたしはお前たちに次のことを行うであろう。すなわち、お前たちの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病をもって目を見えなくさせ、体を衰弱させるであろう。お前たちが種を蒔いても無駄となるであろう。お前たちの敵がそれを食べ尽くすからである。」
また黙示録6章15節以下の、「地上の王、高官、千人隊長、富豪、権力者、そして、すべての奴隷と自由な身分の者も、洞穴(ほらあな)や山の岩間に身を隠した。そして、もろもろの山や岩に向かって言った、『わたしたちの上に倒れて、玉座に座っておられる方の顔から、また小羊の怒りからわたしたちを隠してくれ』。」という箇所は、次に示すルカ福音書23章30節の「そして、その時、人々は山に向かって、『わたしたちの上に崩れ落ちよ』と言い、丘に向かっては、『わたしたちを覆え』と言い出すであろう。」という箇所と、明らかに対応している。
◯ルカによる福音書23章28節~31節
「そこで、イエスは彼女たちの方を振り向いて、仰せになった、『エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣かなくてもよい。むしろ、自分自身のため、また自分の子供たちのために泣きなさい。それは、人々が『不妊の女、子を産んだことがない胎(たい)、吸わせたことのない乳房は幸いである』と言う日が来るからである。そして、その時、人々は山に向かって、『わたしたちの上に崩れ落ちよ』と言い、丘に向かって、『わたしたちを覆え』と言い出すであろう。生木でさえこうされるのなら、いったい枯れ木はどうなるであろうか。」
黙示録によって滅亡を暗示されている「都」が一体どこなのか、もはや疑う余地はなかろう。
◯ヨハネの黙示録18章4節~8節
「わたしの民よ、彼女から逃げ去れ。それは、その罪に与(くみ)せず、その災いに巻き込まれないためである。彼女の罪は積もり積もって天にまで達し、神はその不正を心に留(とど)められた。彼女がお前たちに報いたとおりに、彼女にも報い返してやれ。彼女の仕業に応じて倍にして返してやれ。彼女が混ぜものを入れた杯に、その倍の量を混ぜて注いでやれ。彼女が驕り高ぶり、贅沢をほしいままにしたのと同じほどの苦しみと悲しみを彼女に与えよ。彼女は心の中で、こう言っているから、『わたしは女王の座にあり、やもめではなく、決して憂き目を見ることはない』。それ故、一日のうちにさまざまな災い──死と悲しみと飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされる。彼女を裁く神なる主は、力ある方だからである。」
ルカ21章21節で主イエス・キリストは、エルサレムが包囲されようとしている時にはその都を脱出すべきであると警告され、地方にいる人々は山に逃げるべきでいかにエルサレムが堅固な都であろうともそこに籠城すべきではないとも警告された。黙示録18章4節ではその警告がもう一度繰り返されている(「わたしの民よ、彼女から逃げ去れ。それは、その罪に与(くみ)せず、その災いに巻き込まれないためである。」)。8節の「死と悲しみと飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされる」という「大淫婦」「大バビロン」の末路は、紀元七〇年のエルサレム滅亡の歴史的光景そのものであり、ルカ福音書の主イエス・キリストの御言葉ともよく符合している。
ユダヤ人がローマ帝国に大反乱を起こし、それに対して派遣されたローマ軍がエルサレムを一回目に包囲したのは、紀元六六年のことであった。
紀元七〇年におけるエルサレムと神殿との滅亡、そしてそれに先立つ数年間に都で展開される惨状に、決して巻き込まれることのないよう、主イエス・キリストは御自分の弟子たちに、何度も繰り返し警告されていたのであった。
◯マタイによる福音書24章1節~3節
「イエスが神殿の境内を出ていかれると、弟子たちが近寄ってきて、イエスに神殿の建物を指し示した。すると、イエスは仰せになった、『あなた方はこれらのすべてを見ているのか。あなた方によく言っておく。積み上げられた石が一つも残らないまでに、すべてが破壊される』。」
◯マルコによる福音書13章1節~2節
「さて、イエスが神殿の境内を出られると、弟子の一人が言った、『先生、ご覧ください。何と素晴らしい石、何と素晴らしい建物でしょう』。すると、イエスは仰せになった、『あなたはこれらの壮大な建物を眺めているのか。積み上げられた石が一つも残らないまでに、すべては崩されるであろう』。」
◯ルカによる福音書21章5節~6節
「さて、ある人たちが、美しい石と奉納物で飾られた神殿について話し合っていたとき、イエスは仰せになった、『あなた方が目にしているこれらのものが破壊され、積み上げられた石が一つも残らない日が来る』。」
◯イザヤ書64章9節~10節
「あなたの聖なる町々は荒れ野となり、シオンは荒れ野となり、エルサレムは荒れ果ててしまいました。わたしたちの聖なる輝かしい神殿は、かつては先祖があなたを賛美した所でしたが、火に焼かれ、わたしたちの宝はすべて廃墟となりました。」