ダニエル書の7章には、明らかに主イエス・キリストを彷彿とさせる、「人の子のようなもの」が登場する。
◯ダニエル書7章13節~14節
「見よ、人の子のようなものが天の雲に乗り、『日の老いたる者』のもとに来て、そのみ前に導かれた。権威と威光と王権が彼に与えられ、諸国、諸族、諸言語の民がみな彼に仕えた。その支配は過ぎ去ることのないとこしえの支配。その統治は滅びることはない」
この箇所で、「日の老いたる者」とは、御父である神を意味している。
そして、主イエス・キリストを「人の子」と呼ぶ場合、それは「人〔となられた神〕の子」という意味合いであり、<完全な神であると同時に完全な人間でもある>という事実、つまり、その存在の神性を大前提としている。
(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
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さらにダニエル書7章の上記引用部分の前後には、「人の子のようなもの」が到来するタイミングとして、「地上に興る第四の王国」の「十人の王」たちの時代の最後に、「十人の王」(24節)のうちの「三人の王」が倒され、その後に「先の王たちと異な」る「一人の王」が興り、この人物が「いと高き方に逆らって語り、いと高き方の聖なる者らを悩まし、時と律法とを変えようと企(たくら)む。」(25節)とされている。
旧約聖書において、「地上」の「地(エレツ)」という表現は、しばしば「エレツ・イスラエル」すなわち「イスラエルの地(エゼキエル書7章2節参照)」のこと──つまり「イスラエル世界」「ユダヤ世界」を指す場合がある。
そこでこの場合の「地」「地上」を「イスラエル世界」「ユダヤ世界」と解釈し、「地上に興る」第一の王国をサウル王の国(サムエル記上10章1節)、第二の王国をダビデ王の国(サムエル記上16章13節)、第三の王国をヤロブアム王の国(列王記上12章20節)と考えると、第四の王国とは、ユダ・マカバイとその一族が興した王国、すなわちハスモン王朝の王国ということに、他ならない。
◯ダニエル書7章24節
「第四の獣は、地上に興る第四の王国。これはほかのすべての王国と異なり全地を食らいつくし、踏みにじり、打ち砕く。十本の角は、この国から興る十人の王。その後に、一人の王が興る。彼は先の王たちと異なり、三人の王を倒す」
元来、ユダ・マカバイとその一族は祭司族(アロン族)の家柄であって、王族(ダビデ王の子孫)ではなかった。また、祭司族とはいえ、大祭司にまで就任できるほどの家柄でもなかった。
そんなハスモン家が、やがて大祭司の地位に、そして王位にまで就くことができたのは、ひとえにユダ・マカバイやその後継者たちが軍事的に圧倒的な成功を収めてユダヤ人の勢力と領土を著しく拡大したためであり、その勃興期における軍事的な成功の華々しさこそが、ハスモン王朝の最大の特徴であったのである。
ハスモン王朝の国は、当時ユダヤを支配していたシリア王アンティオコス・エピファネスがユダヤ教を弾圧したのを契機に独立戦争を起こし、バビロン捕囚以降は長らくエルサレムとその周辺のみの領域であったユダヤの独立を果たしたばかりか、サマリアやガリラヤにまで軍を進めて領土とし、さらには、古くからエドムと呼ばれアレクサンドロス大王の征服以降はギリシア流にイドマヤと呼ばれた地域までも支配下に収め、軍事的な成功という意味では、ハスモン王朝の全盛期には、まさにダビデ王やソロモン王の時代に優るとも劣らない強盛ぶりを誇った。
(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』」も参照のこと。
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この時代になるとユダヤ人たちは、「自分たちの祖先であるヤコブ(イスラエル)と、イドマヤ人の祖先であるエサウとは、父イサクと母リベカとを同じくする、双子の兄弟である」というところから、イドマヤ人にモーセの律法と割礼を受け入れさせてユダヤ教に改宗させ、改宗したイドマヤ人たちを積極的にユダヤ社会の中に取り込んでいく、という方針を採っていた。
ところで、イドマヤを征服した後で、ハスモン王朝の王たちは、あるイドマヤ人の男を非常に気に入って、そのイドマヤ人と彼の子孫たちを、側近さらに重臣として取り立てて厚遇していくようになった──そのイドマヤ人の子孫の中から、やがてハスモン王家を乗っ取ってしまう、ある一人の恐るべき人物が登場するとも知らずに──。
さて、マカバイ記の時代のユダヤ人たちにとって、「北の王」すなわちシリアのセレウコス王朝と、「南の王」すなわちエジプトのプトレマイオス王朝とは、ユダヤを南北から圧迫し続ける二大勢力であり、特に「北の王」シリアのセレウコス王朝は、ユダヤ人にとってはまさに、「目の上のたんこぶ」的な存在であったが、一方、当時のユダヤ人にとって「遠方の頼れる同盟者」的な存在であったのが、共和政時代のローマである。
ローマの勢力は既に、セレウコス王朝のシリアそしてプトレマイオス王朝のエジプトという両者を圧倒しており(マカバイ記一8章参照)、ユダヤのハスモン王朝が領土を拡大できたのも、同盟国であるローマの存在感が影響していた。
ところが、「北の王」も「南の王」もローマの領土拡大に伴って衰退の一途をたどると、ハスモン王家のユダヤそれ自体にとっても、あまりに巨大化し過ぎたローマの存在は、重大な脅威として、のしかかって来るようになった。
末期に入るとハスモン王家は「お家騒動」的な王位継承の争いを繰り返し、ローマがそれに乗じてユダヤの内戦に介入した。結局はローマの支持を獲得した側が勝利し、敗れた側の王は非業の最期を遂げることになった。
そしてローマは、自分たちの味方についた者たちに、ローマの官位を授けたが、この時イドマヤ人の重臣の一族に授けられた官位は、既にユダヤの王に引けを取るものではなかった。
つまり、このイドマヤ人の重臣一族は、ローマの勢力を背景にして、ユダヤにおける実権を握ったのである。
いくら当時のハスモン王家の王が優柔不断な人物だったとはいえ、ローマからはかなり軽視されたということになる。
しかし、たとえローマからの官位がそのように高いものだったとしても、そのイドマヤ人の重臣もそしてその長男も、ハスモン王家が支配するユダヤにおいて強大な権力を自分たちの手中に収める野心こそ抱いてはいたものの、主君であるハスモン王家の王に取って代わろうとするまでの異心を抱くことはなかった。
ただしそのイドマヤ人の重臣の次男──後にヘロデ大王と呼ばれることになる男──までは、そうではなかった。
ヘロデは、まだ若者であった頃から、自分の主君である王を平然と軽んじる態度を見せていた。
やがて重臣であったヘロデの父が政敵に暗殺されると、ヘロデは兄ともども主君である王を両脇で支える存在となった。
ところが、ローマがカエサル暗殺後の混乱に陥ったのに乗じて、東方の強国であったパルティアがユダヤに侵入し、王とヘロデの兄とがパルティア軍にまんまと欺かれて捕虜となり連れ去られる、という緊急事態が発生した。
そしてパルティアは、ハスモン王家の一族で自分たちの保護下にあった別の人物を新しい王に擁立し、ユダヤを自分たちの属国としようとしたのである。
ヘロデは、主君である王と自分の兄とがパルティアに連行されてしまい、自身にとってユダヤには安全な場所がなくなってしまったため、遠くローマを目指して亡命したが、やがて連行された自分の兄が非業の最期を遂げたことを知った。
この危機的状況の中にあって、ヘロデは気づいてしまった──ローマがユダヤに求めているのは、あくまでもローマの望むままに行動してくれる王の存在であって、それは別にハスモン王家の誰かである必要などなく、ヘロデ自身であっても一向に差し支えないことに──。
ローマから見た評価という点では、既にヘロデは、主君である王に匹敵する存在であった。
ヘロデは亡命先のローマで、ローマの承認を受けたユダヤの王として、擁立されたのである。
そして、ヘロデはローマの援軍とともにユダヤに舞い戻り、パルティアによって擁立された新王を倒し、ローマの保護のもとに自分自身がユダヤの王として君臨するようになり、一方ではかつての主君であった王の孫娘に当たるハスモン王家の若く美しい王女と結婚し、ハスモン家の女性を王妃とすることによって、自身の王位継承を正当化したのであった。
ユダヤを属国化することに失敗したパルティアは、やがて自分たちが捕虜として連行したユダヤの旧王──ヘロデが若い頃から仕えてきた主君である王──をユダヤに送り返してきた。
既にユダヤの王となっていたヘロデにとってみれば、いくら自分の新しい王妃の祖父に当たる人物とはいえ、この旧王は、やはり「目の上のたんこぶ」的な邪魔者、もはや「厄介な贈り物」でしかなかった。
結果的に、このパルティアからユダヤに送り返された旧王はヘロデによって謀殺され、非業の最期を遂げた。
かつてはハスモン王朝の臣下であったヘロデがユダヤの王としての立場を確立するまでに、ユダヤを統治していたハスモン王家の三人の王が非業の最期を遂げ、またヘロデ自身の父そして兄が非業の最期を遂げていたのである。
ここで、「地上に興る第四の王国」をハスモン王朝と考えた場合に、その「十人の王」に該当すると想定される、ハスモン家における歴代の一〇人の代表的な指導者たちの名前を次に列挙する。
なお、この中には、「事実上の王」としての権威を持ちながらも、実際には「王」として即位したわけではなかった人物も、含まれてはいる。
ユダ・マカバイ
ヨナタン
シモン
ヨハネ・ヒルカノス一世
アリストブロス一世
アレクサンドロス・ヤンナイオス
サロメ・アレクサンドラ
ヒルカノス二世
アリストブロス二世
アンティゴノス
このうち最後の三人の王が、ヘロデ大王が権力をわがものにしていく過程において倒され、非業の最期を遂げた。
つまり、ダニエル書7章は、「神の独り子」である救い主(「人の子」)が到来されるタイミングとして、ハスモン王朝の「十人の王」の時代が終わってヘロデがユダヤの王位を簒奪し権力の座を手中に収めた後のことであると、預言していたとも解釈できることになる。
ヘロデ大王が権力の座に就く過程でハスモン家の三人の王たちは倒されることになったが、その他にもヘロデ大王は、ハスモン家から娶った王妃マリアムネ(またはマリアムメとも表記)の若い弟をも謀殺している。ユダヤ人たちが内心では「王妃の弟であるハスモン家の若者(アリストブロス三世)こそが本来の正統な王位継承者である」と考えていたからである。
このように、ハスモン王朝の男性たちをヘロデ大王は次々に殺していったため、王妃は祖父と弟をヘロデ大王に殺された形になった。
当然ながらヘロデ大王は王妃とも険悪な仲となり、遂には王妃マリアムネをも殺害してしまった。
そして晩年になるとヘロデ大王の疑心暗鬼はいよいよ募っていく一方で、マリアムネとのあいだにもうけた二人の息子たちさえも殺してしまうなど、独裁者の宿命というべきか、もはやヘロデ大王は、自分自身以外のだれも(たとえ相手が自分の近親者であっても)全く信用できないといっても過言ではないような、重度の猜疑心の固まりとでもいうべき惨状であった。
晩年のヘロデ大王は、「マリアムネが産んだ息子たちは、母親を殺した自分を必ず恨んでいるはずだ」と不安を抱き、自分が殺されるくらいならば先に息子たちを殺してしまおうと考えて実行し、息子たちの死後しばらくして、自分も息を引き取ったのであった。
自分の立場を脅かす恐れのある存在に対しては、それがどのような相手であっても直ちに行動して一刻も早く不安の芽を摘んでしまう──というのが、ヘロデの長年の「習性」と化していた。
マタイによる福音書2章20節には、イエスとマリアを連れてエジプトに避難していたヨセフの夢の中に現われた主の使いの言葉として、次のようにある。
◯マタイによる福音書2章20節
「起きて、幼子(おさなご)とその母を連れてイスラエルの地に行け。幼子の命を狙っていた人々は死んでしまった」
この節の「幼子の命を狙っていた人々」という表現は、ヘロデ大王以外にも、イエスの命を狙っていた人物がいたことを暗示しており、ヘロデ大王の死と同じ時期に<その人物>も死んでしまったという意味で解釈できるが、<その人物>とは恐らく、ヘロデ大王の息子(あるいは息子たち)のことであると思われる。
E・ラゲ訳『新約聖書』(中央出版社)の巻末の「辞解」には、ヘロデ大王について、次のように記されている。
「キリスト降誕当時、統治していたヘロデは大王と呼ばれたが、ただ、同名の人に対してこう言ったにすぎず、別に大王と呼ばれるような価値のある人物ではなかった。約四十年間王位につき、その惨酷さによって有名で、近親や長男までも殺した人である。」
マタイによる福音書2章から、ヘロデ大王が関係している箇所を、以下に列挙する。
◯マタイによる福音書2章1節~6節
「さて、イエスが、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、東方の博士たちがエルサレムに来て、尋ねた、『お生まれになったユダヤ人の王は、どこにおられますか。わたしたちはその方の星が昇るのを見たので、拝みに来ました。これは聞いたヘロデ王はうろたえた。エルサレムの人々もみな同じであった。王は祭司長や民の律法学者たちをすべて集めて、メシアはどこに生まれるのかと問いただした。彼らは答えた、『ユダヤのベツレヘムです。預言者が次のように書き記しています。<ユダの地ベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中で、決して最も小さなものではない。お前から一人の統治者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである>』」
◯マタイによる福音書2章7節~12節
「そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼び寄せて、星が現れた時期を確かめた。そして、彼らをベツレヘムに送り出すにあたって言った、『行って、その幼子(おさなご)を丹念に探し、見つけたら、わたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行きたいから』。王の言葉を聞いて、彼らは出かけた。すると、彼らがかつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、幼子のいる場所まで来て止まった。彼らはその星を見て、非常に喜んだ。家の中に入ってみると、幼子が母マリアとともにおられた。彼らはひれ伏して幼子を礼拝した。そして宝箱を開けて、黄金、乳香(にゅうこう)、没薬(もつやく)を贈り物としてささげた。その後、夢の中でヘロデのもとに戻らないようにとのお告げを受けたので、ほかの道を通って自分たちの国へ帰っていった」
8節の「行って、その幼子を丹念に探し、見つけたら、わたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行きたいから」という言葉は、平気で嘘をつくヘロデの人柄がまさによく表れており、実際このように相手を油断させておいていきなり葬り去るという手口は、長年にわたってヘロデの常套手段であった。もともと臣下の身であったヘロデが四十年近くにわたってユダヤの王として君臨できたのも、そのような汚い手口を延々と繰り返し使い続けたからであった。
◯マタイによる福音書2章16節~18節
「さて、ヘロデは博士たちに欺(あざむ)かれたと知って、非常に怒った。そして人を遣わし、博士たちから確かめた時に基づいて、ベツレヘムとその地方一帯にいる、二歳以下の男の子をことごとく殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われたことが成就した。預言者はこう言っている、『ラマで声が聞こえた。大きな嘆きと悲しみが。ラケルは子らのために泣き、慰めを受けつけようともしない。もはや子らがいないから』」
16節の「二歳以下」というのは、古代にはまだ「ゼロ」の概念が存在しなかったことを考えると、満年齢ではなく「数え年」で解釈しなければならない。
◯マタイによる福音書2章19節~20節
「さて、ヘロデが死ぬと、夢の中で、主の使いがエジプトにいるヨセフに現れて、言った、『起きて、幼子とその母を連れてイスラエルの地に行け。幼子の命を狙っていた人々は死んでしまった』」
(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859