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『ヘブライ人への手紙』が書かれた理由

(以下、聖書の日本語訳はフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』(サンパウロ)によります)

【1】「幕屋」の後身がエルサレム神殿ならば、「宿営(地)」の後身はエルサレムである

紀元七〇年にエルサレム神殿(第二神殿)が滅亡してしまう以前は、初代教会の時代の「ヘブライ人」すなわち一世紀のユダヤに生きるキリスト教徒にとって、「モーセの時代の幕屋」に相当する同時代の存在とは、疑う余地なく、「エルサレム神殿(第二神殿)」に、ほかならなかった。

ならば、初代教会の時代の「ヘブライ人」にとって、モーセの時代に「宿営」とか「宿営地」または「陣営」などと呼ばれていたものに相当する同時代の存在とは、いったい何であっただろうか? 
それは、紀元七〇年のエルサレム神殿の滅亡以前は、都そのもの──エルサレムそのものに、ほかならなかった。

モーセの時代の「幕屋(移動可能な組立式神殿)」は、モーセの一行の「宿営地」においては常に精神的な中心であり続けた。逆に言えば、幕屋を取り巻くように(幕屋を囲むように)、モーセの一行は宿営地を置いていた。

◯民数記9章15節~22節
「住居が建てられた日、雲が住居、すなわち契約の証(あか)しの幕屋を覆った。それは、夕方には火のようなものになって、住居の上にあり、そして朝まで留(とど)まった。いつもこのようであって、雲が住居を覆い、夜には火のように見えた。雲が幕屋を離れて上ると、イスラエルの子らはそれに従って旅立ち、雲が留まった所に宿営するのが常であった。イスラエルの子らは主の命令に従って旅立ち、主の命令に従って宿営した。雲が住居の上に留まっている間、彼らは宿営していた。長い間、雲が住居の上に留まる時には、イスラエルの子らは主の指示を守って、旅立たなかった。また、雲が数日間しか住居の上に留まらないような時でも、彼らは主の命令に従って宿営し、主の命令に従って旅立った。雲が夕方から朝までしか留まらないような時でも、朝になって雲が上れば、彼らはただちに旅立った。昼でも夜でも、雲が上れば、彼らは旅立った。一日でも、一か月でも、それより長い間でも、雲が留まり続ける間イスラエルの子らは宿営し続け、旅立たなかった。そして雲が上れば彼らは旅立つのであった。」

紀元七〇年以前のエルサレムにおいては神殿(第二神殿)もまた同様に、疑う余地なく、常に精神的な中心であり続けた。

よって、以上の事情を踏まえるならば、ヘブライ人への手紙13章13節における「宿営」とは、一世紀当時の都エルサレムのことをほのめかしているのは明らかである。

すなわち『ヘブライ人への手紙』の著者(あるいは著者たち)は、この箇所において、「ヘブライ人」つまり読者であるユダヤ人キリスト教徒たちに対して、いよいよ都エルサレムを離れる(放棄する、断念する)時がそこまで来ていることをほのめかしているわけである。そして実はこの箇所こそが、この手紙が書かれた真の目的であり、この手紙のクライマックスであると言える。

一世紀当時、すなわち初代教会の時代において、都エルサレムとモーセの時代の「宿営(地)」とが同一視されていたことは、次に提示する聖書の二つの箇所を比較しても明らかである。

◯使徒言行録7章57節〜60節
「人々は大声で叫びながら耳を覆い、ステファノを目がけて一斉に襲いかかり、彼を町の外に引き出して、石を投げつけた。証人たちは、自分たちの上着を、サウロという若者の足元に置いた。彼らが石を投げつけている間、ステファノは、『主イエス、わたしの霊をお受けください』と祈った。そして、ひざまずいて、大声で、『主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないでください』と叫んだ。こう言って、彼は眠りに就いた」

◯レビ記24章13節〜14節、16節
「主はモーセに次のように告げられた、『呪いを口にした者を宿営地の外に引き出し、それを聞いたすべての者にはその者の頭に手を押しあてさせ、全会衆にはその者に石を投げて殺させよ』」
「『主の名を冒涜する者は死刑に処せられる。全会衆はその者を石で打ち殺さなければならない。他国の者であれ、この国に生まれた者であれ、み名を冒涜する者は殺される』」

【2】「天のエルサレム」に近づくためには、「今のエルサレム」を離れる必要がある

◯ヘブライ人への手紙13章11節
「動物の血は、罪を贖(あがな)うために、大祭司によって聖所の内に携えて行かれますが、死体は宿営地の外で焼かれるのです。」

フランシスコ会聖書研究所訳の欄外の注には、「レビ16・27参照。これは一年に一度贖いの日に行われる、特別な儀式(レビ16・11ー19)に従うやり方であった。」とある。

◯ヘブライ人への手紙13章12節
「それで、イエスも、ご自分の血をもって民を聖なるものとするために、門の外で苦難に遭われたのです。」

同じくフランシスコ会聖書研究所訳の欄外の注には、「イエスのエルサレム城外ゴルゴタ(マタ27・33、マコ15・22、ヨハ19・17参照)での処刑は、贖罪日の日の儀式において象徴されたことの実現を意味する。」とある。

ちなみに「門」という言葉は、イザヤ書14章31節や詩編87(86)編2節またミカ書1章9節や哀歌4章12節あるいは創世記24章60節でも示唆されているように、門の存在する場所としての都市──すなわち都市そのものを連想的に表現する語としても用いられている。

◯ヘブライ人への手紙13章13節
「ですから、わたしたちも、イエスの辱(はずかし)めを担い、宿営の外へ出て、みもとに行こうではありませんか。」

この箇所の「宿営」という表現がほのめかしているのが、神殿(第二神殿)が存在した当時(紀元七〇年以前)のエルサレムである。ガラテヤ人への手紙4章25節の表現を借りるとすれば、「今のエルサレム」にほかならない。ちなみに、他の日本語訳聖書では、フランシスコ会訳の「宿営」に対応するものとして、「宿営」(日本聖書協会新共同訳)、「幕営(ばくえい)」(講談社バルバロ訳)、「陣」(中央出版社ラゲ訳)などと表現されている。

◯ヘブライ人への手紙13章14節
「わたしたちは、この地上に、永久の都を持っていません。わたしたちが探し求めているのは来たるべき都です。」

フランシスコ会訳の「永久の都」「来たるべき都」に対応する表現は、バルバロ訳では「不変の都」「未来の都」であるが、バルバロ訳の聖書の欄外の注では「未来の都」について、「天のエルサレム。」としている。この「天のエルサレム」という表現は、ガラテヤ人への手紙4章26節に登場する。

◯ガラテヤ人への手紙4章26節
「だが、天のエルサレムは自由な身分の女で、これはわたしたちの母です。」

ヘブライ人への手紙12章にも、「天のエルサレム」という表現は登場する。

◯ヘブライ人への手紙12章22節~24節
「しかし、あなた方が近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、大群のみ使いの喜びの集いです。また、それは天に登録されている長子たちの教会、万民の裁き手である神、完全な者とされた義人たちの霊であり、さらに、新しい契約の仲介者イエスと、アベルの血よりも優れたことを語る彼の注がれた血なのです。」

ちなみに一世紀後半のユダヤ人の歴史家フラヴィウス・ヨセフスは、ユダヤ人がローマ人に大反乱を起こした歴史について記述した著作において、いわゆる「重い皮膚病」あるいは性病(淋病)の患者はエルサレム市内から完全に排除されていたと当時の衛生事情について証言したが、いわゆる「重い皮膚病」に関するモーセの律法における次の箇所と照合してみると、紀元七〇年の滅亡以前のエルサレムがモーセの律法における「宿営地」と同一視されていた、と考える根拠の一つとなりうる。

◯レビ記13章45節~46節
「患部のある重い皮膚病患者は衣服を引き裂き、その髪を乱し、口髭(くちひげ)を覆い、『汚(けが)れている、汚れている』と叫ばなければならない。患部がその体にあるかぎり、汚れている。その人は汚れた者だから、離れて住まなければならない。その住居は宿営地の外である。」

【3】主イエス・キリストは、既に公生活中にエルサレムを離れる日が来ることを予告されていた

◯マタイによる福音書24章15節~16節
「預言者ダニエルによって言われた『荒廃をもたらす憎むべきもの』が聖なる場所に立つのを見たなら、──読者は悟れ──その時、ユダヤにいる人は山に逃げなさい。」

ダニエル書9章の預言に登場するこの「荒廃をもたらす憎むべきもの」が、主イエス・キリストによって再び問題にされたということは、ダニエル書の預言がマカバイ記の時代に全て成就したわけではなかったことを意味している。マカバイ時代から約二百年を経て、主イエス・キリストは再び「荒廃をもたらす憎むべきもの」と次に示す神殿の滅亡とを、マタイ24章で話題にされているのである。

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4584

フランシスコ会聖書研究所訳マタイ24章15節の「荒廃をもたらす憎むべきもの」は、新共同訳では「憎むべき破壊者」、バルバロ訳では「<荒らす者のいとわしいもの>」、ラゲ訳では「『いと憎むべき荒廃』」、日本聖書協会口誤訳では「荒らす憎むべき者」などの表現で訳されている。これは下記のマルコ13章14節の場合も同様である。当時のユダヤ世界において「聖なる場所」と言えばエルサレムの神殿、とりわけその聖所に他ならない。従って、マタイ24章15節が予告している出来事が起こるのは、ローマ帝国軍によるエルサレム神殿滅亡(紀元七〇年)以前ということになる。なぜならローマ軍による聖所の占領以前に、既にエルサレムの町は破壊し尽くされており、ローマ軍の神殿占拠を目撃した後では、山に逃げるタイミングとしては遅過ぎるのである。それゆえ、「荒廃をもたらす憎むべきもの」あるいは「憎むべき破壊者」とはローマ軍のことではなく、それ以前に神殿の聖所を占拠していた別の何かということになる。

◯マルコによる福音書13章14節
「さて、『荒廃をもたらす憎むべきもの』が立つべきではない所に立つのを見たなら、──読者は悟れ──その時、ユダヤにいる人は山に逃げなさい。」

紀元六六年に勃発したユダヤ人のローマ帝国への大反乱において、前線から首都エルサレムに撤退した敗残兵たちは地方から都に流れ込んで来た無法者たちと結託して武装勢力を形成、神殿の聖所を占拠してそこを根城にエルサレム市民たちに対し虐殺や略奪など暴虐の限りを尽くし、また先祖伝来の律法に背く行為を市民たちに強要した。当初は武装勢力を自分たちの守護者と見なしていたエルサレム市民は、こんなことならばローマ軍の手に落ちた方がよほどましだと考えて、城外への脱出を試みる者たちが続出した。マルコ13章14節の「立つべきではない所」とは、マタイ24章15節の「聖なる場所」と同様に神殿の聖所を意味している。

◯マタイによる福音書23章35節~39節
「こうして、正しい人アベルの血から、あなた方が聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカリヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなた方の上に降りかかる。あなた方によく言っておく。これらのことはみな、今の時代に降りかかるであろう。」
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ。雌鳥が翼の下に雛を集めるように、わたしはいく度、あなたの子らを集めようとしたことであろう。しかし、あなた方はそれに応じようとしなかった。見よ、あなた方の家は荒れ果てたまま、見捨てられる。わたしは言っておく。あなた方が、『主の名によって来られる方に祝福があるように』と言う時まで、あなた方は決してわたしを見ることがない。」

◯ルカによる福音書21章20節~24節
「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいているのを悟りなさい。その時、ユダヤにいる人は山に逃げなさい。また、都にいる人はそこを立ち去り、地方にいる人は都に入ってはならない。それは、書き記されていることがすべて成就される、報復の時だからである。それらの日に、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸である。地上には深い苦悩が、この民の上には神の怒りが臨むからである。人々は剣の刃に倒れ、捕虜となって、あらゆる国に連れていかれる。そして、異邦人の期間が満たされるまで、エルサレムは異邦人に踏みにじられる。」

「軍隊」はルカ19章43節の「敵」と同様にローマ軍に他ならないが、ローマ軍がエルサレムを包囲した時点で神殿の聖所を占拠していたのは、無法集団と化していたエルサレム市内の武装勢力であった。よってマタイ24章15節やマルコ13章14節との比較から、この無法集団こそが「荒廃をもたらす憎むべきもの」「憎むべき破壊者」ということになる。エルサレム市内において無法集団は、略奪や暴行そして虐殺また放火にいたるまであらゆる悪事をほしいままにしていた。

ルカ福音書のこれらの引用箇所では紀元七〇年のエルサレム滅亡について語られている。ルカ19章44節の「訪れ」とは「主の来臨」に他ならない。さらにルカ21章21節において主イエス・キリストは、エルサレムが包囲されようとしている時にはその都を脱出すべきであると警告され、また地方にいる人々は山に逃げるべきでエルサレムがいかに堅固な都であろうとそこに入って籠城すべきではないとも警告された。

そしてルカによる福音書21章22節には、「それは書き記されていることがすべて成就される、報復の時だからである。」とあり、ここにおいて主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡(紀元七〇年)をもって旧約聖書の預言が全て成就し、旧約時代──すなわち、エルサレム神殿の時代が完全に終焉を迎えることを、明らかにされた。
(新共同訳では「書かれていることがことごとく実現する報復の日」、バルバロ訳では「書き記されているすべてのことの実現する報復の日」、ラゲ訳では「これ刑罰の日にして、書きしるされたること、すべて成就すべければなり」、日本聖書協会口語訳では「聖書にしるされたすべての事が実現する刑罰の日」の表現である)

ルカ21章23節には「地上には深い苦悩が、この民の上には神の怒りが臨む」という主イエス・キリストの御言葉があり、当然この箇所は、マタイ24章21節やマルコ13章19節に対応しているが、プロテスタントの文語訳聖書である『改訳 新約聖書』(1917年)においては、ルカ21章23節の同じ箇所を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳しており、ある人々がいわゆる「大艱難時代」「大患難時代」などと呼んでいる時期が実は第二神殿滅亡の前後に他ならないことを、既に暗示している。

なお、聖書における「地上」という表現の「地」とは、文脈によってはルカ4章25節やローマ9章28節やヤコブ5章17節などの場合と同様、古い契約(旧約)における神の民の居住地(居住範囲、居住領域)すなわち、ユダヤ世界を指す場合がある(ダニエル9章6節やバルク1章9節も参照)。黙示録18章24節の「預言者たちや聖なる人々の血、地上で殺されたすべての者の血が、この都で流されたからである」の「この都で」と日本語訳されている箇所のギリシア語原文は「彼女において(εν αυτη – en autē)」という表現であるが、この場合の「〜において」は地理的な所在地というよりは、責任の所在(マタイ23章35節〜37節やルカ11章50節〜51節や黙示録16章6節などを参照)を意味している。そしてルカ21章23節「地上には深い苦悩が」の「地上」も、文脈からはユダヤ世界を指している。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

◯ルカによる福音書13章33節~35節
「預言者がエルサレム以外の地で死ぬことはありえないからである」
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ。めん鳥が翼の下に雛を集めるように、わたしはいく度、お前の子らを集めようとしたことであろう。しかし、お前たちはそれに応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。わたしは言っておく。お前たちが、『主の名によって来られる方に祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」

◯マタイによる福音書21章12節~13節

「イエスは神殿の境内にお入りになった。そして境内で物を売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の机や、鳩を売っている者たちの腰掛けを倒された。そして、彼らに仰せになった、『《わたしの家は祈りの家と呼ばれる》と書き記されている。それなのに、あなた方はそれを強盗の巣にしている』。」

◯エレミヤ書7章2節~3節、11節

「主の神殿の門に立ち、そこでこの言葉を告げよ。そして、言え。主を礼拝するために、これらの門を通っていくユダの人々よ、みな、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう仰せになる。お前たちの道と行いを改めよ。」

「わたしの名によって呼ばれるこの家が、お前たちの目には盗賊の巣と見えるのか。見よ、わたしにもそう見える──主の言葉。」

エレミヤ書7章では11節で神殿(第一神殿)をまさに「盗賊の巣」と呼んだ上で、12節以下で神殿の滅亡について預言されている。そして主イエス・キリストも、エルサレム入城の後、神殿(第二神殿)を「強盗の巣」と呼んだ上で(マタイ21章13節、マルコ11章13節、ルカ19章46節)、神殿の滅亡について予告された(マタイ24章3節、マルコ13章2節、ルカ21章6節)。その予告は紀元七〇年に現実のものとなった。エレミヤ書7章12節に登場する「シロ」は、かつては「会見の幕屋」すなわち神殿が建てられていた土地であった(ヨシュア記18章)。しかし、サムエル記上の最初の四つの章にある通り、当時イスラエルを裁き治めていた祭司エリの息子たちの悪行に感化されてイスラエルの民のあいだに悪がはびこり、やがてペリシテ人の侵攻を受けて壊滅的な打撃を蒙ることになった。主イエス・キリストの言葉には大祭司(祭司長)たちの一族の行いを告発するニュアンスも、当然ながら含まれている。

◯エレミヤ書7章12節~15節

「シロにあるわたしの場所、かつてわたしの名をそこに住まわせた所に行き、わたしの民イスラエルの悪の故にわたしがそこに対して行ったことを見よ。さて、お前たちはこれらのことをすべて行い──主の言葉──、わたしがお前たちに語り、何度となく語ったのに聞かず、呼び掛けたのに応えなかった。それ故わたしは、わたしの名によって呼ばれ、お前たちが信頼しているこの神殿に、また、お前たちとお前たちの先祖に与えたこの所に、シロに対して行ったように行う。わたしはお前たちの兄弟、エフライムの子孫のすべてを放り出したように、お前たちをわたしの前から放り出す。」

15節の「お前たちの兄弟、エフライムの子孫のすべてを放り出した」という部分は、サマリアの陥落(列王記下17章)を指している。

◯マルコによる福音書11章15節~17節

「イエスは神殿の境内に入り、そこで売買をしている人々を追い出し始め、両替人の机や、鳩を売っている人たちの腰掛けを倒し、また誰にも境内を通って品物を運ぶことをお許しにならず、人々に教えて仰せになった、『わたしの家はすべての民族のための祈りの家と呼ばれる』と書き記されているではないか。ところが、あなた方はそれを強盗の巣にしてしまった』。」

◯ルカによる福音書19章45節~46節

「それから、イエスは神殿の境内にお入りになり、商売をしていた人々を追い出し始め、彼らに仰せになった、『《わたしの家は祈りの家でなければならない》と書き記されている。それなのに、あなた方はそれを強盗の巣にしてしまった』。」

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

【4】ヨハネの黙示録も、実は福音書やヘブライ人への手紙と同じ事柄を警告している内容だった

ヘブライ人への手紙12章に登場する「シオンの山」は、黙示録14章にも登場する。

◯ヨハネの黙示録14章1節
「また、わたしは見た。見よ、小羊がシオンの山に立っていた。そして、この小羊とともに十四万四千の人々がいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名が記されていた。」

「小羊」──すなわち 主イエス・キリスト──とともにいる「十四万四千の人々」は、既に黙示録7章に登場していた。

◯ヨハネの黙示録7章3節~8節
「『わたしたちが、神の僕(しもべ)たちの額に刻印を押し終わるまでは、地にも海にも樹木にも害を加えてはならない』。ユダ族の中から一万二千人が刻印を押され、ルベン族の中から一万二千人、ガド族の中から一万二千人、アセル族の中から一万二千人、ナフタリ族の中から一万二千人、マナセ族の中から一万二千人、シメオン族の中から一万二千人、レビ族の中から一万二千人、イサカル族の中から一万二千人、ゼブルン族の中から一万二千人、ヨセフ族の中から一万二千人、ベニヤミン族の中から一万二千人が刻印を押された。」

ここに登場する「アセル族」とは、フランシスコ会聖書研究所訳の他の箇所における表現とも一致させるならば、「アシェル族」とすべきものである(ルカ福音書2章36節:「アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。」)。

◯ヨハネの黙示録14章3節
「また、この人々は、玉座の前と四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌を歌っていたが、地上から贖(あがな)われた十四万四千人のほかは、誰もこの歌を学ぶことができなかった。」

旧約聖書のヨエル書にも「シオンの山」は登場する。

◯ヨエル書3章3節~6節
「わたしは天と地に不思議な徴を現す。血と火、そして煙の柱である。偉大な、恐るべき主の日を前にして、太陽は闇(やみ)と化し、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。それは主が仰せになったように、シオンの山とエルサレムに救いがあるからだ。主が呼ばれた残りの者たちのうちにも。」

この箇所においては、「恐るべき主の日」において、(地上の)エルサレムにいる者で救われるのは、ただ「主の名を呼ぶ者」のみであることが、預言されている。

◯ヨハネの黙示録1章1節〜3節
「イエス・キリストの黙示」
「この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、その僕(しもべ)たちに示すために、神がイエス・キリストにお与えになり、そして、イエスがみ使いを遣わして、僕ヨハネに示されたものである。ヨハネは神の言葉とイエス・キリストの証(あか)し、すなわち自分の見たすべてのことを証言した。この預言の言葉を朗読する者、また、これを聞いて、そこに記されていることを守る者たちは幸いである。時が近いからである。」

◯ヨハネの黙示録6章12節~17節
「小羊が第六の封印を解いたとき、わたしは見た。激しい地震が起こり、太陽は毛織りの粗布(あらぬの)のように黒くなり、月は全面血のようになった。天の星は地上に落ちた。それはあたかも、いちじくが大風に煽(あお)られて、その青い実を振り落とすようであった。天は巻物が巻かれるように消え失せ、山と島はことごとくその場所から移された。地上の王、高官、千人隊長、富豪、権力者、そして、すべての奴隷と自由な身分の者も、洞穴(ほらあな)や山の岩間に身を隠した。そして、もろもろの山や岩に向かって言った、『わたしたちの上に倒れて、玉座に座っておられる方の顔から、また小羊の怒りからわたしたちを隠してくれ』。あの方々の怒りの大いなる日が来たからである。誰がそれに耐えられようか。」

黙示録6章の12節以降がエルサレム(および第二神殿)の滅亡と強く関連していることは、前掲のヨエル書3章との関連でも明らかである。15節の「洞穴や山の岩間に身を隠した」という表現は、既に何世紀も昔に預言者イザヤがユダ王国と都エルサレムについて受けた啓示を、想起させるものである。

◯イザヤ書2章1節、10節〜11節、19節、21節
「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて啓示されたこと。」
「岩の間に入り、塵(ちり)の中に隠れよ。主の恐ろしさとその威光の輝きを避けて。その日には、人間の高ぶる目は低くされ、人の慢心は卑しくされ、主ただひとり、高く上げられる。」
「主が立って、地を揺り動かされるとき、人々は、主の恐ろしさとその威光の輝きを避けて、岩場の洞窟(どうくつ)、塵の穴に入る。」
「主が立って地を揺り動かされるとき、人々は主の恐ろしさとその威光の輝きを避けて、岩場の洞穴、崖(がけ)の裂け目に入る。」

聖書の中には、「洞穴」に関する記述が少なくない。イスラエルは洞穴が非常に多く見られる風土であるが、イザヤ書2章のこれらはまさに「ユダとエルサレムについて」の「啓示」である。

◯エレミヤ書4章29節
「騎兵と射手(いて)の叫びの度にすべての町の人々は逃げ去り、彼らは洞穴に入り、茂みに隠れ、岩に登る。すべての町は放棄され、一人としてそこに住む者はない。」

実際に、紀元七〇年のエルサレム滅亡の際、エルサレムを支配していた武装勢力の指導者たちは、自分たちだけは生き延びようとエルサレム城外へ通じる秘密の地下通路に逃げ込んだ。黙示録6章15節「地上の王」を「ユダヤ世界の王」と解釈すると、ローマ帝国側は武装勢力の指導者の一人シモン・バル・ギオラのことをユダヤ側の「王」と見なしていたが、このシモン・バル・ギオラもやはり地下通路で逃亡を図るも成功せず、結局はローマ軍に投降し、処刑された。

ローマ帝国でネロ皇帝に対する反乱が起こり、ネロの自殺後ローマ帝国が内戦状態に入り、ローマ軍の脅威がいったん去ったかのように見えると、三派が割拠した状態でエルサレムを支配していた武装勢力は、市民たちをも巻き込んで血で血を洗う内部抗争を展開した。
大反乱の時期のエルサレムにおいては、それぞれの武装勢力各派が敵対する勢力の支配地域を攻撃する際、穀物市場に放火して小麦だろうと大麦だろうと焼き払う、という蛮行が行なわれていた。
ユダヤ人の歴史家ヨセフスやローマ人の歴史家タキトゥスが、大反乱の時期のエルサレムで大量の穀物が焼き払われていたことを書き残しており、さらにユダヤの伝承の集大成であるタルムードにおいてまでも、武装勢力がエルサレム市民を対ローマ戦争に駆り立てる目的であえて小麦や大麦を焼き払って見せたことが記録されている。

◯ヨハネの黙示録6章5節〜6節
「小羊が第三の封印を解いたとき、わたしは第三の生き物が『出てこい』と言うのを聞いた。そして、わたしは見た。見よ、一頭の黒い馬が現れた。それにまたがっている者は、手に天秤(てんびん)を持っていた。そして、わたしは四つの生き物の中から出る声のようなものが、こう言うのを聞いた、「小麦一升は一デナリオン、大麦三升は一デナリオン、オリーブ油とぶどう酒には害を加えてはならない』。」

最終的に、滅亡を前にしたエルサレムは深刻な食糧不足に苦しむこととなった。

◯ヨハネの黙示録6章7節〜8節
「小羊が第四の封印を解いたとき、わたしは第四の生き物が『出てこい』と言うのを聞いた。そして、わたしは見た。見よ、一頭の青白い馬が現れた。それにまたがっている者の名は『死』であり、その後ろには陰府(よみ)が従っていた。彼らには、剣と飢饉(ききん)と死病と地上の野獣によって、地上の四分の一の人々を殺す権力が与えられた。」

また黙示録6章15節以下の、「地上の王、高官、千人隊長、富豪、権力者、そして、すべての奴隷と自由な身分の者も、洞穴(ほらあな)や山の岩間に身を隠した。そして、もろもろの山や岩に向かって言った、『わたしたちの上に倒れて、玉座に座っておられる方の顔から、また小羊の怒りからわたしたちを隠してくれ』。」という箇所は、次に示すルカ福音書23章30節の「そして、その時、人々は山に向かって、『わたしたちの上に崩れ落ちよ』と言い、丘に向かっては、『わたしたちを覆え』と言い出すであろう。」という箇所と、明らかに対応している。

◯ルカによる福音書23章28節〜31節
「そこで、イエスは彼女たちの方を振り向いて、仰せになった、『エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣かなくてもよい。むしろ、自分自身のため、また自分の子供たちのために泣きなさい。それは、人々が『不妊の女、子を産んだことがない胎(たい)、吸わせたことのない乳房は幸いである』と言う日が来るからである。そして、その時、人々は山に向かって、『わたしたちの上に崩れ落ちよ』と言い、丘に向かっては、『わたしたちを覆え』と言い出すであろう。生木でさえこうされるのなら、いったい枯れ木はどうなるであろうか。」

黙示録によって滅亡を暗示されている「都」が一体どこなのか、もはや疑う余地はなかろう。

◯ヨハネの黙示録18章4節~8節

「わたしの民よ、彼女から逃げ去れ。それは、その罪に与(くみ)せず、その災いに巻き込まれないためである。彼女の罪は積もり積もって天にまで達し、神はその不正を心に留(とど)められた。彼女がお前たちに報いたとおりに、彼女にも報い返してやれ。彼女の仕業に応じて倍にして返してやれ。彼女が混ぜものを入れた杯に、その倍の量を混ぜて注いでやれ。彼女が驕り高ぶり、贅沢をほしいままにしたのと同じほどの苦しみと悲しみを彼女に与えよ。彼女は心の中で、こう言っているから、『わたしは女王の座にあり、やもめではなく、決して憂き目を見ることはない』。それ故、一日のうちにさまざまな災い──死と悲しみと飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされる。彼女を裁く神なる主は、力ある方だからである。」

ルカ21章21節で主イエス・キリストは、エルサレムが包囲されようとしている時にはその都を脱出すべきであると警告され、地方にいる人々は山に逃げるべきでいかにエルサレムが堅固な都であろうともそこに籠城すべきではないとも警告された。黙示録18章4節ではその警告がもう一度繰り返されている(「わたしの民よ、彼女から逃げ去れ。それは、その罪に与(くみ)せず、その災いに巻き込まれないためである。」)。
それはヘブライ人への手紙13章13節で、暗示されている事柄でもあったのである。

つまり、『ヘブライ人への手紙』が書かれた本当の理由は、当時のユダヤに既に万単位(使徒言行録21章20節)で存在していた「ヘブライ人」すなわちユダヤ人キリスト教徒に対し、福音書で主イエス・キリストが予告されていた事態がいよいよ間近に迫っているため、エルサレムを離れるための心の準備をするよう促すことにあったのである。

◯使徒言行録6章1節、7節
「そのころ、弟子の数が増えるにつれて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対する苦情が出てきた。それは、毎日の配給の時に、彼らのやもめたちがなおざりにされがちであったからである。」
「こうして、神の言葉はますます広まり、エルサレムで弟子の数は非常に増え、多くの祭司たちも、こぞってこの信仰に入った。」

◯使徒言行録21章20節
「彼らはこれを聞いて、神をたたえた。そして、パウロにこう言った、『兄弟、ご存じのように、ユダヤ人で信者になった者がいく万となくいますが、彼らはみな、律法の熱心な遵守者です』。」

ユダヤ人がローマ帝国に大反乱を起こし、それに対して派遣されたローマ軍がエルサレムを一回目に包囲したのは、紀元六六年のことであった。
紀元七〇年におけるエルサレムと神殿との滅亡、そしてそれに先立つ数年間に都で展開される惨状に、決して巻き込まれることのないよう、主イエス・キリストは御自分の弟子たちに、何度も繰り返し警告されていたのであった。
使徒言行録21章20節には、ユダヤ人キリスト教徒が既に万単位に達しているという会話が記録されているが、この会話がなされた聖パウロのエルサレム訪問は、紀元五八年頃の出来事であると考えられている。

◯マタイによる福音書24章1節~3節

「イエスが神殿の境内を出ていかれると、弟子たちが近寄ってきて、イエスに神殿の建物を指し示した。すると、イエスは仰せになった、『あなた方はこれらのすべてを見ているのか。あなた方によく言っておく。積み上げられた石が一つも残らないまでに、すべてが破壊される』。」

◯ダニエル書9章26節

「次に来る指導者の民によって都と聖所は荒らされる。その終わりは洪水。戦いの終わりまで荒廃が定められている」

ダニエル書9章は、エルサレムそしてその神殿の再建を強く願うダニエルの祈りと、それに対する応答としてのいわゆる「七十週」の預言から構成されている。つまり「七十週」の預言とは必然的に、再建後のエルサレムとその神殿──すなわち第二神殿の時代のエルサレムに関する預言であるとしか解釈できない。「次に来る指導者の民」がローマ帝国の国民であり、「都」はエルサレム、「聖所」はエルサレム神殿の聖所と考えると、まさにその出来事は紀元七〇年に起こった。ヨハネ福音書11章48節の「ローマ人が来て、われわれの土地と国民とを征服してしまう」との比較に注意。「洪水」は怒濤の勢いで大軍団が殺到する光景の比喩的な表現であるのと同時に、その襲来によって全てが一掃されて跡形もなくなってしまうことをも、暗示している。ヨハネ福音書11章で最高法院の人々は、「もしもユダヤ人たちがイエスこそダニエル書9章に預言されているメシアすなわちキリストであると信じてしまうならば、その次に来たる事態はローマ人によるエルサレム及び神殿の滅亡である」という論理で、イエスの殺害を正当化しようとしたのである。

(注)別エントリー「ダニエル書9章の『七十週』預言」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/22

◯ヨハネによる福音書11章47節~48節

「そこで、祭司長たちやファリサイ派の人々は、最高法院を召集して言った、『この人は多くの徴(しるし)を行っているが、われわれはどうしたらよいのか。このままにしておけば、みなが彼を信じるようになる。そうなると、ローマ人が来て、われわれの土地と国民とを征服してしまうだろう』。」

◯マルコによる福音書13章1節~2節

「さて、イエスが神殿の境内を出られると、弟子の一人が言った、『先生、ご覧ください。何と素晴らしい石、何と素晴らしい建物でしょう』。すると、イエスは仰せになった、『あなたはこれらの壮大な建物を眺めているのか。積み上げられた石が一つも残らないまでに、すべては崩されるであろう』。」

◯イザヤ書64章9節~10節

「あなたの聖なる町々は荒れ野となり、シオンは荒れ野となり、エルサレムは荒れ果ててしまいました。わたしたちの聖なる輝かしい神殿は、かつては先祖があなたを賛美した所でしたが、火に焼かれ、わたしたちの宝はすべて廃墟となりました。」

◯ルカによる福音書21章5節~6節

「さて、ある人たちが、美しい石と奉納物で飾られた神殿について話し合っていたとき、イエスは仰せになった、『あなた方が目にしているこれらのものが破壊され、積み上げられた石が一つも残らない日が来る』。」

◯ルカによる福音書19章28節、41節~44節

「さて、イエスはこれらのことを語り終えると、先頭に立って、エルサレムへ上って行かれた。」

「都に近づき、イエスは都をご覧になると、そのためにお泣きになって、仰せになった、『もしこの日、お前も平和をもたらす道が何であるかを知ってさえいたら……。しかし今は、それがお前の目には隠されている。いつか時が来て、敵が周囲に塁壁を築き、お前を取り囲んで、四方から押し迫る。そして、お前と、そこにいるお前の子らを打ち倒し、お前のうちに積み上げられた石を一つも残さないであろう。それは、訪れの時を、お前が知らなかったからである』。」

(注)別エントリー「『荒廃をもたらす憎むべきもの』とは何か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/84

〔追記〕

ローマ帝国軍によるエルサレムそしてその神殿の滅亡を、まさに同時代の目撃者でもあったユダヤ人の歴史家ヨセフスは、ダニエル書に記された預言の成就であると見なした。

ユダヤの歴史に関する著作においてヨセフスは、当然ながら預言者ダニエルについて言及し、またダニエル書の預言が成就したのは、歴史上、二度にわたっていることを、書き記した。
すなわち一度目はユダ・マカバイやアンティオコス・エピファネス王の時代のことであり、そして二度目はローマ軍によるエルサレム(そして第二神殿)滅亡の時であると、ヨセフスは説明した。

(注)別エントリー「『携挙』:ギリシア語聖書本文で徹底検証【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7753