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試論:「主の僕」と「神の小羊」を140文字以内で

黙示録7章16節はイザヤ49章10節を踏襲することで洗礼者が言及した(ヨハネ1章)

「〔神の〕小羊」

とイザヤ書の

「主の僕(しもべ)」

が同一人物であると再確認させ、

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た」
(マタイ20章28節、マルコ10章45節)

という事柄をも再確認させる。

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

【追記】

ルカ2章32節でシメオンは幼子を「異邦人を照らす啓示の光」と呼び、この幼子こそイザヤ49章6節で預言された「主の僕(しもべ)」だと示唆した。さらに続けて「反対を受けるしるし」(ルカ2章34節)という表現で、この幼子がイザヤ50章6節の受難を経験することをも、母親のマリアに伝えた。

古代のギリシア語訳イザヤ50章6節では、「主の僕(しもべ)の忍耐」に関する預言を、「平手打ちする者に頬をまかせた」と記した。これと関連して主イエス・キリストはマタイ5章39節で説教され、そして主御自身その通り(マルコ14章65節、ヨハネ18章22節、同19章3節)に実践なさった。

(注)別エントリー「試論:イザヤの預言と主の御受難を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6322