主イエスはマルコ7章でファリサイ派の人々を厳しく批判された。それは、「あなたたちは他人の揚げ足取りばかりで、他人への温情や心配りはない」というものだった。ファリサイ派の人々には主のような奇跡的な癒しや悪霊を追い出すことはできず、できることといえば弟子に難癖をつけることだけである。
(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
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【追記】
【問】主イエスは「わたしは世の光」「あなたたちは世の光」などと仰せになりました。なぜ?
【答】「光」はイザヤ58章6節以下にある通り善意・温情・心配り・憐れみの業等の喩えで、人の心と表情を明るくさせ人々の心を温めます。「光」がなくなれば、人々の心と表情は暗くなり、心は冷え込みます。
【問】福音書には主イエスが「笑った」という記述がない、という議論があるそうです。
【答】イザヤ58章10節は隣人への温情を「光」に喩えます。理由は相手の心や顔を明るくするからです。主はヨハネ8章で「わたしは世の光」と宣言されましたが、これはいつも仏頂面の人が語る言葉ではありません。
【問】イザヤ58章6節以下では、困窮している人々に対する心配り・善意・温情・憐れみの心が「光」に喩えられていますが、なぜ?
【答】それらが相手の表情と心とを明るくさせ、また、それらが相手の心を、光が熱を与えるように温かくさせるからです。マタイ5章16節「あなたの光を輝かせなさい」。
イザヤ58章10節は「心を配る」と日本語で表現されるが、ヘブライ語本文は「霊魂を注ぐ」と表現する。ルカ11章41節「器の中にあるものを施せ」はこれに基づく。「器」は人間の比喩、「器の中にあるもの」は霊魂で、主の真意は「揚げ足取りはやめて、隣人に配慮することを学びなさい」であった。
(注)別エントリー「試論:『土の器』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
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信仰とは神から命じられた通りに日々の一挙手一投足をもって証しし続ける事柄であり、たとえ神が人となられて人々に「兄弟」と呼び掛けられるほど親しみを示されたとしても、そのことは人間の神に対する厚かましさや馴れ馴れしさを正当化するものでは全くないと、ルカ17章7節以下で主は説明された。
(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360
主イエスはルカ17章7節以下で神から命じられている事柄を全て実行しているからといって人は思い上がってはいけないと仰せになった。忠実な僕(しもべ)が最後に神から報酬を受け取ることは12章35節以下で説かれるが、あくまで「天の国」のことであって、この世で他人を見下していいわけがない。
(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494
(注)別エントリー「試論:『戸をたたいている』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12070