試論:無原罪とは?を140文字以内で

【問】マリアは受胎告知の時から「無原罪」になったのだと考えてはいけませんか?
【答】「無原罪」とは【存在の初めから常に悪魔の感化つまり罪や悪の影響とは全く無縁である】(創世記3章15節、黙示録12章)という意味ですので、生涯のある時点から「無原罪」になるという発想は意味がないです。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

【追記】

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告された。黙示録12章では、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

【問】カトリックでは創世記3章15節および黙示録12章の「女」をマリアと解釈し、サタンと決定的に相容れない存在だと教えますが、その対立点はどこ?
【答】マリアは人々へ神の言葉には全て従うよう勧めますが(ヨハネ2章5節)、サタンはエバへ神に従わぬ(創世記3章4節)よう、言葉巧みに唆しました。

【問】どうして「女(婦人)」と「蛇」(あるいは「竜」、悪魔、サタン)とは相容れない関係なのですか?
【答】箴言3章34節は、「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と説きます。サタンは高慢な者の象徴であり母マリアはへりくだる者(ルカ1章38節、48節)の象徴です。

【問】主イエスはヨハネ2章4節と同19章26節で母マリアのことを、「婦人」あるいは「女」呼ばわりしています。実母に対してあんまりでは?
【答】創世記3章15節で神なる主は、「蛇」に対峙する「女」について予告されました。黙示録12章は、救い主を産む「女」こそがその女性だと啓示します。

「救い主」が世を救われる方法に関しイザヤは、「小羊」(53章7節)つまり代価として御自分をささげ、「しもべ」(42章、49章以下等)として人々に仕えると預言し、主もマタイ20章28節でそれを宣言された。救い主の母となることを承諾した女性が「主のはしため」を称するのは象徴的である。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785

ルカ福音書1章の「受胎告知」の際、自由意志によるマリアの承諾を得た後に、み使いガブリエルは去った。おとめマリアの承諾がなければこの世界に救いはもたらされずマリアなくしてキリスト教自体も存在しないのだから当然、「救い主の母」マリアを「救い主」を信じる人々全てが崇敬すべきなのである。

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750

(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5246

【問】なぜ受胎告知の際にマリアは、承諾の返答よりも先に「わたしは主のはしため」と再確認しましたか?
【答】マリアはそう前置きすることで、「わたしは神の御独り子の母となることを承諾しますが、決して『神のようになること』(創世記3章5節)を望むからではありません」と意思表示をしました。

【問】マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)と呼ばれる女性なのに、なぜ「主のはしため」と謙遜したのですか?
【答】もしも彼女が「自分は救い主の母だから息子と同じ扱いを受けたい」と思い上がったなら、神のようになりたいと思ってサタンにだまされた、エバの二の舞になるからです。

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

(注)別エントリー「試論:聖母崇敬の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18956

聖母マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方でありながら「わたしは主のはしため」(38節)と自称されるほど謙遜そのものの生涯であり、ただの一度も主イエスの前で出しゃばることがなかったゆえに「へりくだる者は高められる」(ルカ14章11節)の通りに崇敬を集めた。

(注)別エントリー「試論:『救い主の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7510

【問】主イエスが十二歳の時、主を見失った後、エルサレム神殿の境内で主を発見した時、聖母は主をとがめたのではないですか?
【答】いいえ。聖母は御子をとがめたわけでも責めたわけでも非難されたわけでもなく、ただ最愛の御子が自分に一言もなく姿を消した理由を知りたかった、ただそれだけでした。

【問】聖書はキリストを模範(ヨハネ13章15節等)と示すけど、全て真似する必要があるの?
【答】いいえ。倣うべきは「仕えられるのではなく、仕える」姿勢で、真似する必要のない事柄は例えば湖の上を歩く、唾で泥を作り目の見えない人を治す、聖霊を与えると称して息を吹きかけるなどの行為です。

カトリックではナザレの聖家族は三人と教える。主の養父ヨセフは終生、息子と妻の望むことだけを行い、三人家族の三番目であるかのように振舞い後世の人々からもそう思われた。世の男性たちが子供たちや女性たちを平然と虐待する、毒々しい時代が来る時、ヨセフの存在は強力な解毒剤として働くだろう。

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750

黙示録12章は「女」聖母マリアと「竜」サタンとの決定的対立を象徴的に描く。それはマリアの賛歌や箴言3章34節「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」の通りで、後に主イエスも、「自ら高ぶる者は低くされ、へりくだり自ら低くなる者は高くされる」と福音書で繰り返された。

聖母は「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方ながら、「わたしは主のはしため」(38節)と自称されたが、ペトロとヤコブは「神はへりくだる人に恵みをお与えになる」と書いた。「神の御独り子の母」となられた女性のへりくだりと恵み(ルカ1章28節)とは、いかばかりだろうか?

黙示録12章9節は「竜」を「悪魔とかサタンとか呼ばれる年を経た蛇、全人類を惑わす者」などと呼び、創世記3章の「蛇」と同定する。その手口は「〔神から言い渡された掟に従わなくとも〕あなたは死ぬことがない」であり、主イエスもマタイ13章39節で「毒麦を蒔いたのは悪魔」と警告されている。