試論:「肉を十字架につけた」?を140文字以内で

ガラテヤ5章24節は「キリスト・イエスのものとなった人たちは肉を欲情や欲望もろとも十字架につけた」と記す。真っ先にイエスのものとなったのは母マリアと養父ヨセフだが、幼子の御養育だけにマリアが専念できるように、ヨセフが自分の肉欲を永久に「十字架につけた」としても、何の不思議もない。

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243

(注)別エントリー「試論:『あなたがヨセフならば』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18521

【追記】

古代のイスラエルにおける第一の掟は、「あなたは心・精神・思い・力を尽くして、あなたの神である主を愛さなければならない」(マルコ12章30節、申命記6章5節)。この掟に鑑みて養父ヨセフは、自分自身と妻マリアから幼子イエスを愛する機会を片時でも奪う可能性のある行為を、永久に断念した。

主イエスはルカ14章33節で弟子たちに、自分の持ち物を全て捨てて従うよう勧められた。養父ヨセフは婚約者の妊娠を知り熟慮の末、彼女との関係を全て断ち切ろうとしたが、夢に現れた天使のお告げにより、一度は放棄しようとした彼女との関係を、執着心とは一切無縁の、神に喜ばれる形で再構築した。

カトリックではナザレの聖家族は三人と教える。主の養父ヨセフは終生、息子と妻の望むことだけを行い、三人家族の三番目であるかのように振舞い後世の人々からもそう思われた。世の男性たちが子供たちや女性たちを平然と虐待する、毒々しい時代が来る時、ヨセフの存在は強力な解毒剤として働くだろう。

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。

カトリックで聖母を指す表現「天の門」は、聖書では創世記28章17節にのみ登場し、同節は主がおられた場所を「なんと畏れ多い場所」「天の門」と呼ぶ。主を宿した「胎」(ルカ11章27節)であるマリアを、同様に《なんと畏れ多い女性》と感じるのは、古代のイスラエル人の感覚として当然である。

マタイ福音書のギリシア語本文はヨセフをディカイオス(1章19節)と呼ぶが、ディカイオスは最後の審判で天国の福楽を確約されている人(25章37節)を意味し、ヨセフがもともと天の国にいてもおかしくないほどに無垢な(創世記6章9節)底抜けの大善人で天使のような人であったことを示唆する。

詩編15編3節は、神なる主と同じ住まいで暮らす人の条件として、周囲に対して中傷をせず、害を及ぼさず、小馬鹿にした態度を取らないことを挙げ、また2節では完全(=無垢)で、義を行うことを挙げる。主イエスの同居家族として、ヨセフが幼子や幼子の母を困らせる行動に出た可能性は皆無と言える。