「取扱厳重注意」の旧約聖書

【問】旧約聖書は戦争の話や人が沢山死ぬ話ばかりで困惑します。
【答】主イエスは、ホセア6章6節「わたしが望むのは憐れみであって生贄ではない」を二度引用されました。旧約聖書の生贄の話や戦争の話や人が沢山死ぬ話は新約時代に生きるキリストの弟子たちにとって二度と起こりえない過去の話です。

【問】旧約聖書を読んでいると戦争の話や人が沢山死ぬ話が多過ぎてうんざりします。こんなものを求めるためにキリストに従ったつもりはありません。
【答】戦場で敵を倒して勝ち誇る替わりに主イエスは十字架上で自分の命を献げられ、敵を倒して勝ち誇る時代はもう終わったことを人々に示唆されました。

【問】旧約聖書は豚肉食禁止や割礼を命じますが、新約聖書ではそれらの必要はないと教えます。どちらに従えばいいの?
【答】もちろん新約聖書の方です。主イエス・キリストが人となられて世に来られた以前と以後とでは、信仰の規範となる事柄が違っていることを忘れず十分に理解しなければなりません。

【問】カトリックが近代まで一般信者に旧約聖書を読ませることに消極的だったのはなぜですか?
【答】主イエスが世に来られる前と後とでは信仰の規範となる事柄が違っているのに、十分それを理解せぬまま「旧約聖書に書かれていることなら全て正しい」と真似を始めるうっかり者が出るのを防ぐためです。

【問】では、旧約聖書に書かれていることで現代のキリスト信者が真似しなくてもいいこととは何ですか?
【答】例えば一夫多妻制、豚肉食禁止、割礼、エルサレム神殿の建設、十分の一の献(ささ)げ物や生贄、預言者たちへの従順、〔日曜日の方ではなく〕土曜日(旧約の安息日)を尊重すること、等です。

(注)別エントリー「試論:『安息日と主日との違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12017

(注)別エントリー「試論:『土曜と日曜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12677

【問】旧約の「十分の一の献げ物」の替わりが現代の「十分の一献金」ですか?
【答】いいえ。ヘブライ10章5節以下は、旧約時代の全てのいけにえや献げ物の類に替わるものとして主イエス・キリストが御自分の体を十字架上で献げられたと教えます。「十分の一献金」は蛇の絵に足を描くような行為です。

(注)別エントリー「試論:『十分の一献金』の問題点を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12207

【問】結婚前のボアズは雇う側でルツは雇われる側でした。土地から収穫される穀物の十分の一を献げる義務(レビ27章30節)があるのは誰?
【答】もちろんボアズであってルツではありません。レビ記が要請するのはあくまでも土地からの収穫量の十分の一であり個々の収入額の十分の一ではありません。

(注)別エントリー「聖書に根拠がない『十分の一献金』の問題点」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/26513

申命記4章2節は「わたしが命じる言葉に何かを付け加えたり除いたりしてはならない。わたしが命じる通りに神なる主の戒めを守りなさい」と教え、神の掟の内容を人間の都合で変更する行為を認めない。従って「十分の一の献げ物」(現物、物納)から「十分の一献金」(貨幣)へ変更することはできない。

旧約時代には申命記18章15節以下の律法の通り、神が立てられた預言者には聞き従わなければならなかった。しかし使徒言行録21章でパウロは、アガボやフィリポの四人の娘など「預言」を行う人々の制止を振り切り、エルサレムへと出発した。新約時代には旧約時代と同じ立場の預言者など存在しない。

旧約の律法では王や大祭司も預言者に従う定めがあったがダニエル9章24節は「預言を封印するメシア」を預言し、ルカ21章22節の主の御言葉と紀元七〇年のエルサレム滅亡で、その預言は成就した。その後も当然「私的啓示」は続くが、決してそれらを旧約時代の「預言」と同じ扱いにしてはならない。

(注)別エントリー「試論:旧約時代の終わりはいつ?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21657

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。