【問】パウロはローマ3章28節で「信仰によって義とされる」という表現を用います。具体的にどうすればいいの?
【答】ルカ10章29節はパウロと同じギリシア語動詞を用い「自分自身が義とされる」ためにはどうすればよいかについて直接、主イエスへ質問をぶつけた一人の律法学者のことを記します。
【追記】
【問】それは有名な「善きサマリア人」の話だと思いますが、あの律法学者は主に、自己正当化の目的で質問したのでは?
【答】いいえ。原文のギリシア語はローマ3章の「義とされる」と同じ語です。つまり、あの律法学者は、「自分が義とされる」ためにはどうすればよいかを主イエスに質問したわけです。
ローマ3章28節は「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」と記すが、30節では「神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とされ、割礼のない者をも、信仰のゆえに義とされる」と説く。つまり《人が義とされるのは割礼〔の有無〕によるのではなく、信仰による》の意味合いである。
【問】パウロは「人が義とされるのは、律法の行いによってではなく信仰によると、わたしたちは考える」と記しますが、どういう意味ですか?
【答】「わたしが求めるのは憐れみでありいけにえではない」に従い、形式的な行為でなく、日々の具体的な憐れみの業(隣人愛)を神に献げなさいという意味です。
(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291
(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827
ローマ3章でパウロは、「信仰」「律法」という表現で実際は、
《イエス・キリストを信仰する人々にとっての新しい掟=愛の掟》と、
《イエスを認めぬ人々の古い掟=律法の掟》を比較した。
人間を「義」とするのは《律法の掟》の実行ではなく、信仰に基づく《愛の掟》の実践(ガラテヤ5章6節)による。
(注)別エントリー「試論:『新しい掟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7016
【問】古代のイスラエル人にとって「正しい」とは何を意味しますか?
【答】サムエル上24章18節「お前(=ダビデ)はわたし(=サウル王)より正しい。わたしは悪意をもってお前と向き合っているのにお前はわたしに対して善意を示してくれた」。旧約聖書における「正しい」は《善意》と不可分です。
詩編12編でダビデが歌った通り旧約の民は原則として、裏表(嘘偽り)のある人や言行不一致の人の中に信仰の存在を認めていなかった。マタイ7章21節の主イエスの仰せ「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入れるわけではない。わたしの天の御父の御心を行う人々だけが入れる」。
(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)はそこに「まこと」と平仮名を振る。ヘブライ語の「まこと」に対応しているためであり、主なる神が裏表や嘘偽りのない心を重視される方だからである。従って信仰とは疑う余地のない確信を指す。
(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246