試論:マタイ16章20節の意味を140文字以内で

【問】なぜ主イエスはここで御自分が救い主であることを誰にも話さぬように命じられましたか?
【答】まだこの時点では、使徒たちでさえも救い主がどのような定め(21節)であるのかまるで理解しておらず、ペトロは「そんなことがあってたまりますか」と口にして主からサタン呼ばわりをされています。

【追記】

【問】主イエスがペトロをサタン呼ばわりされた、その意図は何ですか?
【答】この場合の「サタン」は「邪魔をする者、行く手を阻む者」の意味で、「あなたはわたしのことを思ってそのように言うのだろうが、それではわたしは救い主としての使命を果たさないことになってしまう」が裏側にある仰せです。

【問】「救い主としての使命」って一体何ですか?
【答】「多くの人の身代金(=あがない、代価)として自分の命を献(ささ)げる」(マタイ20章28節、マルコ10章45節)ことで洗礼者は「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節)、聖母は「偉大なこと」(ルカ1章49節)等と呼びます。

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

(注)別エントリー「『偉大なこと』(ルカ1章49節)???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/27791

詩編49編8(7)節は神に対し人間が贖(あがな)いの業を行うことはできないと説く。それができるのは「人〔となられた神〕の子」だけであり、そのために主イエスは来られた(マタイ20章28節)。神は劣化できないため、神のままで人間の全てを担う必要があり、そのためにマリアが不可欠だった。

(注)別エントリー「試論:『神には劣化がない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8697

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。