【問】主イエスはマタイ19章9節で、夫側の身勝手で昔からの妻を追い出し新しい女性を娶ろうとする事例を否定的に紹介されます。
【答】自分の与り知らぬ婚約者の妊娠という現実を目の当たりにしても、なお婚約者の貞潔を疑うことなく彼女を安易に告発しなかったヨセフの「義」(善意)は立派でした。
【問】マタイ19章10節に「夫婦の間柄がそんなものなら、結婚しない方がまし」とあります。「そんなもの」とはどういう事例のこと?
【答】9節の主の仰せの中の「〔夫が〕不法な結婚でもないのに妻を離縁し他の女性を妻にする」ような場合で、要は、夫側の単なる身勝手による離婚の事例を指します。
【問】山上の説教の「義に飢え渇く人は幸い」の「義」とは何?
【答】サムエル上24章18節「お前はわたしよりも義の人だ。わたしはお前に悪意を示したのにお前はわたしに善意を示してくれた」からも分かる通り、古代のヘブライ人の「〔神の〕義」とは現代の日本語でいえば《善意》を意味しています。
【問】「ヨセフは義人だったので婚約者のことを大っぴらにはせずひそかに離縁しようとした」の意味は?
【答】古代のヘブライ人の「義」は《善意》を指し、彼は「善意の人」であり「お前は俺のメンツを潰したのだから、お前もお前の子も地獄に堕ちろ」などと喚いて大騒ぎしたりは決してしませんでした。
(注)別エントリー「婚約者の妊娠を知った時のヨセフの心情」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3092
マタイ1章20節の本文は、婚約者の妊娠を知ったヨセフの心情をエントゥメオマイと表現する。通常この語は熟考・熟慮を表し内面の怒りや憤慨を表す可能性も含むが、ヘロデの激昂を表す2章の語トゥモオーと違い、あくまでも本人の内面に留まるもので婚約者に感情を直接ぶつけた可能性は否定的である。
(注)別エントリー「福音書の聖ヨセフと外典書の高齢者ヨセフ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4759
マタイ1章19節は、婚約者の妊娠がヨセフにとって一目瞭然で疑いようのない事実だった一方、ヨセフにとって婚約者の貞潔もまた一目瞭然で疑いようのない事実であり、ヨセフは大混乱の中にあったがそれでも「婚約者が裏切った証拠は全くなく、彼女を告発するわけにはいかない」と決意したことを記す。
レビ5章1節は、ある人が罪を犯したことは確実という証拠を持っていながら、その人のことを表ざたにしないなら、表ざたにしない者も罰を受けると記す。もしも婚約者が自分を裏切ったという確証を持っていながら、それでもヨセフが婚約者のことを表ざたにしなかったなら、ヨセフは義人ではあり得ない。
イエスの養父ヨセフはマタイ1章19節では「正しい人」を意味するディカイオスというギリシア語で表現されるが、25章46節にも同じギリシア語が登場し「正しい人は永遠の命にあずかる」と書かれており、25章35節から36節には「正しい人」の行動の具体的な例がいくつか実際に紹介されている。
詩編15編3節は、神なる主と同じ住まいで暮らす人の条件として、周囲に対して中傷をせず、害を及ぼさず、小馬鹿にした態度を取らないことを挙げ、また2節では完全(=無垢)で、義を行うことを挙げる。主イエスの同居家族として、ヨセフが幼子や幼子の母を困らせる行動に出た可能性は皆無と言える。
【問】カトリックではマリアとヨセフの清い関係を説きますが、そんなことありえますか?
【答】『寅さんとイエス』という本がありますが、マドンナとの距離感という点で寅さんとヨセフを比較します。両者はマドンナのために無類のお人好しともいえる奔走をしますが、彼女との関係は節度あるものでした。
マタイ福音書のギリシア語本文はヨセフをディカイオス(1章19節)と呼ぶが、ディカイオスは最後の審判で天国の福楽を確約されている人(25章37節)を意味し、ヨセフがもともと天の国にいてもおかしくないほどに無垢な(創世記6章9節)底抜けの大善人で天使のような人であったことを示唆する。
(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243
(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464
カトリックで聖母を指す表現「天の門」は、聖書では創世記28章17節にのみ登場し、同節は主がおられた場所を「なんと畏れ多い場所」「天の門」と呼ぶ。主を宿した「胎」(ルカ11章27節)であるマリアを、同様に《なんと畏れ多い女性》と感じるのは、古代のイスラエル人の感覚として当然である。
マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。
カトリックではナザレの聖家族は三人と教える。主の養父ヨセフは終生、息子と妻の望むことだけを行い、三人家族の三番目であるかのように振舞い後世の人々からもそう思われた。世の男性たちが子供たちや女性たちを平然と虐待する、毒々しい時代が来る時、ヨセフの存在は強力な解毒剤として働くだろう。
主イエスはルカ14章33節で弟子たちに、自分の持ち物を全て捨てて従うよう勧められた。養父ヨセフは婚約者の妊娠を知り熟慮の末、彼女との関係を全て断ち切ろうとしたが、夢に現れた天使のお告げにより、一度は放棄しようとした彼女との関係を、執着心とは一切無縁の、神に喜ばれる形で再構築した。
(注)別エントリー「試論:『あなたがヨセフならば』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18521
古代のイスラエルにおける第一の掟は、「あなたは心・精神・思い・力を尽くして、あなたの神である主を愛さなければならない」(マルコ12章30節、申命記6章5節)。この掟に鑑みて養父ヨセフは、自分自身と妻マリアから幼子イエスを愛する機会を片時でも奪う可能性のある行為を、永久に断念した。
(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464
ガラテヤ5章24節は「キリスト・イエスのものとなった人たちは肉を欲情や欲望もろとも十字架につけた」と記す。真っ先にイエスのものとなったのは母マリアと養父ヨセフだが、幼子の御養育だけにマリアが専念できるように、ヨセフが自分の肉欲を永久に「十字架につけた」としても、何の不思議もない。