【問】「目の見えない人が目の見えない人を道案内」? 何の比喩?
【答】「目の見えない人」とは光を認識できなくなった人の比喩です。《光》はイザヤ58章6節以下では人間の善意の比喩で、ヨハネ8章12節では主イエス御自身を指します。「穴」は、詩編55編24(23)節の通り滅びの象徴です。
【問】ではなぜ、彼らは《光》つまり相手の善意や主イエスのことも認識(理解)できなくなってしまったのですか?
【答】彼ら自身の中にあって彼ら自身の心が生み出した悪意のためです。主はマタイ15章18節以下(マルコ7章20節以下)で、このことを簡潔ながら極めて具体的に説明しておられます。
主イエスはマタイ5章16節で「あなたたちの光を、人々の前に輝かせなさい」と仰せになった。イザヤ58章6節〜10節では主からの賜物である光が輝く条件として、他人を圧迫したり小馬鹿にしたり暴言を吐いたりすることをやめて、困窮している隣人に救いの手を差し延べることであると啓示している。
(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296
【問】ルカ6章39節「目の見えない人が目の見えない人を道案内すれば、二人とも穴に落ちる」の意味って、何?
【答】「自分自身が生み出した悪意のせいで相手の善意も、わたしイエスが何者であるかも、全く分からなくなっている者たちが、互いに教え合っていても、永遠の命へは決して到達できない」。
【問】《キリストの律法》(マタイ7章12節)はなぜ重要?
【答】主イエス御自身が隣人愛という事柄を簡潔に、しかも具体的に定義されたからで、これが、キリストの弟子の規範であると同時に「最後の審判」において「永遠の命」「永遠の罰」のどちらに行くのか、一人一人の行方を、大きく左右します。
(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199
A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。
B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。
C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。
D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。
「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。
(注)別エントリー「試論:マタイ7章12節の重要性を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/27460
イザヤ58章9節「もしもあなたが隣人を圧迫することをやめるなら、もしもあなたが隣人を侮ることをやめるなら、もしもあなたが隣人を言葉で傷つけることをやめるなら、あなたが主を呼ぶ時には必ず主は御答えになり、あなたが主に向かって叫ぶ時には必ず主は『わたしはここにいる』と御返事される」。