試論:「聖母マリアの役割」を140文字以内で

【問】主の御昇天の後、聖書で聖母の登場は使徒言行録1章14節だけです。
【答】聖母は、ただただ祈りをもって、残された弟子たちを支えました。「使徒たちといったって一番肝心な時に主イエスを見捨てて逃げた連中ばかりじゃないか」と不平を言おうとした他の弟子たちは聖母の姿を見て沈黙しました。

【追記】

ヨハネ21章の「大漁の奇跡」はルカ5章で漁師たちが弟子となった場面の再現だった。シモン・ペトロとゼベダイの子たちは自分たちが主に呼ばれた日をいやでも思い出したはずである。土壇場で自分を見捨てて逃げた者たちを再び選ぶことは、「人間の論理」では絶対にあり得ないが、神はそれを行われた。

主の逮捕時に使徒たちが主を見捨てて逃げたことはエルサレムやユダヤの人々には知られていた。使徒以外の弟子たちの中には「ペトロ筆頭に使徒たちは一体どの面(つら)下げて我々の前に出て来れるのか」と快く思っていなかった者もいたはずだが、御復活の主御自身がペトロと使徒たちをお選びになった。

主の御受難の際、十字架を囲んで主の死を見届けたのは聖母マリア、クロパの妻マリア、ヨハネの母サロメ、マグダラのマリア、そしてヨハネだった。女性たちは「使徒などといっても肝心な時には逃げる意気地なしだから、私たちが代わります」とは言わずに、裏方に徹し続け、ヨハネも同様に裏方に回った。

マタイ14章でペトロは自分も湖上を歩くと申し出たが途中で怖くなり沈みかけ、使徒言行録10章で啓示によりモーセの律法の食事規定にとらわれなくてよいと宣言したが、のちに曖昧な態度を取りパウロに厳重注意された(ガラテヤ2章)。主はペトロの揺らぎやすさを承知で彼に御自分の羊を委ねられた。

(注)別エントリー「試論:『口火を切る人、ペトロ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14220

(注)別エントリー「試論:『イエスの舟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14247

(注)別エントリー「試論:『豚肉食禁止の問題』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/22082

彼は家庭を持つ漁師で湖の対岸の異邦人とも交流がないほどだったが、大工の男に説得され、その弟子となり、師とともに湖上を歩き、師から一番弟子に指名された。一度は師を見捨てた彼を師は変わらず信頼し、師が去った後も教えを広めるために彼は世界を巡り、世界の都で一粒のからし種として殉教した。

(注)別エントリー「試論:『自分の十字架』とペトロを140文字以内で」も参照のこと。
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【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に《参加》をした。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。