マタイ21章32節「義の道」

【問】マタイ21章32節に「義の道」という表現が登場します。何のこと?
【答】この節では「義の道」のことを、二度も「彼」と呼んでいます。洗礼者が「わたしの後から来る方」(同3章11節)と呼んで群衆に示し徴税人や娼婦たちが信じた「彼」とは、まさしく主イエス・キリスト御自身のことです。

主が「わたしは道」(ヨハネ14章6節)と仰せになる場合、自身が御父へ通じる唯一無二の存在であると示唆するだけではなく、日本語の「人としての道から外れる」と同様に誰もがそこを通り進んで行くべき人間としての道筋、すなわち御父である神の御前における模範(同13章15節)の意味をも含む。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

【問】山上の説教の「義に飢え渇く人は幸い」の「義」とは何?
【答】サムエル上24章18節「お前はわたしよりも義の人だ。わたしはお前に悪意を示したのにお前はわたしに善意を示してくれた」からも分かる通り、古代のヘブライ人の「〔神の〕義」とは現代の日本語でいえば《善意》を意味しています。

【問】マタイ6章33節「神の国と神の義」や同5章20節「あなたたちの義が律法学者たちやファリサイ派の義に勝らなければ」の「義」って、何?
【答】それらの「義」という訳語はギリシア語原文ではディカイオシュネーで、この語は同6章1節「人前で善行を見せびらかさないように」の「善行」です。

【問】主イエスはなぜマタイ5章「あなたたちは世の光」の後で「あなたたちの義がファリサイ派や律法学者の義に勝らなければ」と仰せになったの?
【答】イザヤ58章6節以下の通り古代のイスラエル人にとって「光」は善意の比喩で、サムエル上24章18節の通り「義(正しい)」も善意を意味します。

(注)別エントリー「『世の光』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/25882

【問】主イエスは「わたしは世の光」「あなたたちは世の光」などと仰せになりました。なぜ?
【答】「光」はイザヤ58章6節以下にある通り善意・温情・心配り・憐れみの業等の喩えで、人の心と表情を明るくさせ人々の心を温めます。「光」がなくなれば、人々の心と表情は暗くなり、心は冷え込みます。

マタイ5章で主は、「あなたがたは世の光」(14節)、「あなたがたの光を、人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)と仰せになり、行いを伴わぬ信仰など役に立たない(ヤコブ2章14節)ことをお話しになった。

【問】創世記のアブラム(アブラハム)の「義」に関する話の前後では彼と対比される存在として「ソドム」が登場しますが、なぜ?
【答】アブラムは、常に自分以外の他の人々に気を配る無私の人でしたが、逆にソドムの人々は、私利私欲の追求しか頭になく、そのためなら他人の迷惑など顧みませんでした。

【問】具体的には何?
【答】アブラハムはソドムの滅亡を思い止まらせようと、神なる主に何度も何度も請い願いましたが、同じ頃ソドムの人々は、アブラハムの甥ロトの家に乱入して当たり前のように物色し乱暴狼藉を働きました。アブラハムの義(善意)とソドムの人々の罪(悪意)とは、対極にあります。

【問】主イエスは神の国と神の義を求めよと説かれました。創世記15章はアブラムが義とされたと記します。なぜ?
【答】同14章で諸国の王が私利私欲のために戦った時、彼だけは人助けのために行動しました。神なる主は同15章の約束で、彼が目先の私利私欲で動く人ではないと、最終確認されました。

【問】天の星の数を彼に数えさせることが、なぜ、彼の義を確認することになるのですか?
【答】もし彼の中に私利私欲のかけらが少しでもあったならば、「わたしは遠い未来の自分の子孫の数のことなんかよりも、自分自身の幸福について具体的に今、目に見えるものが欲しい」などと主張していたはずです。

主イエス・キリストは、人間たちに模範(ヨハネ13章34節)を示されるために、神であり続けながら(ヘブライ13章8節)人間の肉体と魂を担われた(ヨハネ1章14節)以上は、神として教えられた掟(申命記5章16節)を人間として自ら忠実に実践された(ルカ2章51節、マルコ10章45節)。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

【問】知恵の書12章16節「あなたの力は正義の源」の「あなたの力」って、何のこと?
【答】一コリント1章30節はキリストを「神の知恵」と呼び、主イエス御自身もルカ11章49節で「神の知恵」を称されました。一コリント1章24節は「神の力、神の知恵であるキリスト」と同様に呼んでいます。

【問】では、「あなたの力」とは「神の力である主イエス・キリスト」ということですか?
【答】主イエスはマタイ21章32節で「義の道」(二ペトロ2章21節参照)という表現を用いられましたが、ヨハネ14章6節の「わたしは道」を踏まえれば、主は「義の道」という表現で御自身を暗示されました。

【問】主イエスはなぜ「義に飢え渇く人は満たされる」と人々に仰せになったの?
【答】「義の道」(マタイ21章32節、二ペトロ2章21節)であられる救い主は「命のパン」(ヨハネ6章35節)「生きた水の源」(ヨハネ4章14節、同7章37節、エレミヤ17章13節参照)でもあられるからです。

二ペトロ2章21節「『義の道」(=主イエス・キリスト)を知りながら自分たちに与えられた聖なる掟(ヨハネ13章34節、マタイ7章12節)から離れ去るより、『義の道』を知らなかった方が、彼らのためには良かった」箴言8章20節「わたし(=知恵)が歩んで行くのは、憐れみの道と、義の道」。