詩編145(144)編19節には「主は御自分を畏れる人々の望みをかなえられ、彼らの救いを求める叫びを聞けば願いを聞き入れてくださる」とある。主イエスは水の上から沈みかけたペトロにすぐ手を延ばしてつかまえられ、悪霊に苦しめられ続ける娘を持つカナンの女性の叫びに願いを聞き入れられた。
箴言8章13節は「主を畏れることは、悪を憎むこと」と記し「主を畏れる」を明確に定義した。同14章2節は「主を畏れる」を「主を侮る」と対置し、同章16節は「知恵ある人は主を畏れて悪を避けるが愚か者は高慢で自分を過信する」と記す。マタイ福音書で「愚かな」は聞いても実行しない人を指す。
詩編145編19節は「主を畏れる人々の願いはかなえられる」箴言10章24節は「神に従う人の願いはかなえられる」と説く。箴言8章13節は「主を畏れることは悪を憎むこと」とし、主を畏れる人と無縁な事柄を「傲慢、驕り、悪の道、暴言を吐く口」とする。これらを行う人の願いはかなえられない。
ルカ18章で主は「やもめと裁判官」のたとえを話されたが、それは「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」(1節)で、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる」また「これがわたしたちの神に対する確信」と一ヨハネ5章14節は教える。
詩編145編19節は「主を畏れる人々の願いはかなえられる」とし、箴言10章24節は「神に従う人の願いはかなえられる」と説く。マタイ7章7節は「求めなさい。そうすれば与えられる」と主の御言葉を教え、ヨハネ14章13節は「わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう」とも記す。
(注)別エントリー「試論:聞くだけの人を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:砂の上の家を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
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イザヤ55章6節〜7節「まだ主を見つけられる間に、主を尋ね求めなさい。まだ主を近くに感じている間に、呼び求めなさい。神に逆らう者は不従順の道から離れなさい。善からぬことを行う者は悪巧みを捨てなさい。わたしたちの神である主に立ち帰るなら主は憐れんで下さり、どこまでも赦して下さる」。
主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)はそこに「まこと」と平仮名を振る。ヘブライ語の「まこと」に対応しているためであり、主なる神が裏表や嘘偽りのない心を重視される方だからである。従って信仰とは疑う余地のない確信を指す。
プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)では、ヨハネ14章6節で「真理(まこと)」と平仮名を振る。詩編145編18節「主は、まことをもって呼び求める人々すべての近くにおられる」に対応するためだが、詩編のこの節の「まこと」とは、《真心(まごころ)》を意味している。
(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖書の『まこと』って何?を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ2章のカナでの婚礼の際、3節の母の言葉に対し、主は4節でその真意を測りかねる答えをされた。しかし母は5節で、願いが聞き入れられたことを確信して召し使いたちに言葉をかけた。その理由は一ヨハネ5章14節以下に、「これが神に対するわたしたちの確信」という表現とともに記されている。
コヘレト12章13節は「全てに耳を傾けて得た結論」として「神を畏れ神の戒めを守れ」「それこそが人間の全て」と締め括る。8章12節では「神を畏れる人は畏れるからこそ幸福になる」と記し、箴言8章13節は「主を畏れることは悪を憎むこと」として、傲慢・驕り・悪の道・暴言を吐く口を戒める。
(注)別エントリー「試論:聖霊とは縁遠い人を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のヘブライ人は神と神の民との関係を「花婿と花嫁」に喩えた。信仰を夫婦間の愛情に喩えたわけである。夫婦間に「わたしはあなたに60%の愛情を捧げるけれど、別の人にも40%の愛情を捧げる」はあり得ない。従って聖書の中の《信仰》とは、「100%の愛情」つまり疑う余地のない確信である。
(注)別エントリー「試論:『主イエスこそ真の花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしたちの確信』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「『からし種一粒ほどの信仰』???」も参照のこと。
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詩編12編は裏表(嘘偽り)のある人々ばかりの風潮を「信仰のある人はいなくなった」と嘆く。古代のヘブライ人にとって「二心(ふたごころ)」は信仰とは相容れなかった。「あなたの信仰があなたを救った」や「からし種の一粒ほどの信仰」の「信仰」とは《疑う余地のない確信》《完全な信頼》を指す。
ヨハネ20章25節は、指や手を釘跡や脇腹に入れてみなければ自分は決して信じないとトマスが言ったと記す。この場合「信じる」は《確信を持つ》の意味合いである。ヘブライ人にとって信仰とは《確信》であり、どっちつかずの心理状態や言行不一致の状態は「信じる」「信仰」のうちには入らなかった。
主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの「改訳 新約聖書』(1917年)は「まこと」と平仮名を振り、旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示唆する。嘘偽りや裏表がないこと、上っ面だけでなく内実を伴うこと、真心には真心で返されること等を意味している。