【問】バプテスマという聖書ギリシア語は、「身を沈める」という意味ですか?
【答】もしもそうだとすれば、ルカ5章7節で舟が沈みかけた場面でも当然、パプテスマの動詞形バプティツォが用いられていなければなりませんが、原文のギリシア語で実際に用いられたのは、ブティツォという別の動詞でした。
(注)別エントリー「バプテスマは身を沈める・身をひたすことか【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20233
【追記】
主イエスはヨハネ3章5節で「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と仰せになった。これはエゼキエル36章25節以下「わたしがあなたたちの上に清い水を振りかける時、あなたたちは清められ、わたしはあなたたちの中に新しい霊を置く」と同様、洗礼を示唆している。
(注)別エントリー「試論:『わたしが与える水』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10708
「わたしが清い水を振りかける時、あなたたちは清められる。わたしはあなたたちを、すべての汚(けが)れと偶像から清める」、古代のイスラエル人にとって「水を振りかけられて清められる」とは、民数記19節で命じられる「清めの式」の流儀で、この預言をカトリックでは洗礼に関する啓示と理解する。
古代ギリシア語訳列王記下5章14節は預言者エリシャの言葉に従いヨルダン川に七度身を浸したシリア(=アラム)人ナアマンの行為を、「洗礼」と訳されるバプテスマの動詞形バプティツォで表現する。10節でエリシャは七度身を洗うように指示したが、それを受けてナアマンは14節で七度身を浸した。
パウロは一コリント10章2節で、モーセの一行は出エジプトの際にバプテスマすなわち、洗礼を受けたと記す。出エジプト14章21節「モーセは手を海に向けて延ばし、主が夜通し激しい東風で海を押し止められたので、水が分かれ、海は乾いた地になった」。強風によりモーセの一行は水しぶきを浴びた。
「内側を清くする」と聞いて、人々はエレミヤ4章14節「あなたの心から悪を洗い去りなさい。そうすれば、あなたは救われる。あなたはいつまで、心の中に邪悪な思いを抱え続けているのか」や、エゼキエル36章26節「あなたに新しい心を与え、あなたの中に新しい霊を置く」等を連想したはずである。