【問】マタイ1章の系図で「アブラハムの子」「ダビデの子」と強調されるのはなぜですか?
【答】アブラハムは創世記15章6節で、ダビデはサムエル上24章18節で、それぞれが義人であることが強調され、また両人の子孫は特別に反映することが、それぞれ聖書の別々の箇所で約束されているからです。
【追記】
【問】アブラハム、ダビデ、そして主の養父ヨセフの三人に共通する「義」とは何ですか?
【答】サムエル上24章18節「お前はわたしよりも義の人だ。わたしはお前に悪意を示しているのにお前はわたしに善意を示してくれた」の通り、古代のヘブライ人にとっての「義」は日本語の《善意》を意味します。
【問】創世記のアブラム(アブラハム)の「義」に関する話の前後では彼と対比される存在として「ソドム」が登場しますが、なぜ?
【答】アブラムは、常に自分以外の他の人々に気を配る無私の人でしたが、逆にソドムの人々は、私利私欲の追求しか頭になく、そのためなら他人の迷惑など顧みませんでした。
【問】具体的には何?
【答】アブラハムはソドムの滅亡を思い止まらせようと、神なる主に何度も何度も請い願いましたが、同じ頃ソドムの人々は、アブラハムの甥ロトの家に乱入して当たり前のように物色し乱暴狼藉を働きました。アブラハムの義(善意)とソドムの人々の罪(悪意)とは、対極にあります。
【問】主イエスは神の国と神の義を求めよと説かれました。創世記15章はアブラムが義とされたと記します。なぜ?
【答】同14章で諸国の王が私利私欲のために戦った時、彼だけは人助けのために行動しました。神なる主は同15章の約束で、彼が目先の私利私欲で動く人ではないと、最終確認されました。
【問】天の星の数を彼に数えさせることが、なぜ、彼の義を確認することになるのですか?
【答】もし彼の中に私利私欲のかけらが少しでもあったならば、「わたしは遠い未来の自分の子孫の数のことなんかよりも、自分自身の幸福について具体的に今、目に見えるものが欲しい」などと主張していたはずです。
【問】マタイ6章33節「神の国と神の義」や同5章20節「あなたたちの義が律法学者たちやファリサイ派の義に勝らなければ」の「義」って、何?
【答】それらの「義」という訳語はギリシア語原文ではディカイオシュネーで、この語は同6章1節「人前で善行を見せびらかさないように」の「善行」です。
【問】山上の説教の「義に飢え渇く人は幸い」の「義」とは何?
【答】サムエル上24章18節「お前はわたしよりも義の人だ。わたしはお前に悪意を示したのにお前はわたしに善意を示してくれた」からも分かる通り、古代のヘブライ人の「〔神の〕義」とは現代の日本語でいえば《善意》を意味しています。
【問】主イエスはなぜマタイ5章「あなたたちは世の光」の後で「あなたたちの義がファリサイ派や律法学者の義に勝らなければ」と仰せになったの?
【答】イザヤ58章6節以下の通り古代のイスラエル人にとって「光」は善意の比喩で、サムエル上24章18節の通り「義(正しい)」も善意を意味します。
(注)別エントリー「『世の光』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/25882
【問】主イエスは「わたしは世の光」「あなたたちは世の光」などと仰せになりました。なぜ?
【答】「光」はイザヤ58章6節以下にある通り善意・温情・心配り・憐れみの業等の喩えで、人の心と表情を明るくさせ人々の心を温めます。「光」がなくなれば、人々の心と表情は暗くなり、心は冷え込みます。
マタイ5章で主は、「あなたがたは世の光」(14節)、「あなたがたの光を、人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)と仰せになり、行いを伴わぬ信仰など役に立たない(ヤコブ2章14節)ことをお話しになった。