【問】ガラテヤ1章16節は人間を「血肉」と呼び、創世記6章12節も「肉」と呼びます。なぜ「肉」「血」「骨」が人間を意味するの?
【答】創世記1章27節「神は人間を御自分に似た者として創造された」。神と人間の違いは、神は肉体(骨、肉、血)を持ちません。ゆえにそれらは人間を暗示します。
ヘブライ人は時に人間それ自体を「骨」と呼んだ(箴言14章30節等)。エゼキエル37章も、神の民としてのあるべき姿から道徳的に程遠い有様に成り果てた人々を「枯れた骨」と呼んだ。「わたしの住まいは彼らと共にある」は、「神の御言葉は人となりわたしたちの内に住まわれた」と同じ意味である。
(注)別エントリー「『枯れた骨』の復活???」も参照のこと。
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古代のヘブライ人は、人間(人間それ自体。人間の一部ではなく、人間全体)を
「塵(土)」(創世記2章7節、3章19節)
や
「肉」(6章3節、12節)
と表現した。同様に
「骨」(2章23節)
も人間それ自体を指す。箴言16章24節「親切な言葉は骨を癒す」の「骨」とは、
「人々」
を意味している。
古代のヘブライ人の世界観に従ってガラテヤ5章は「人間(人間それ自体)」を「肉」、「神〔に由来するもの〕」を「霊」と呼ぶ。ヨハネ3章6節も同様の対比を用い「霊から生まれた者は霊」の意味を、1章12節は「神の御言葉である主イエスは自分を受け入れる人に神の子となる資格を与えた」と記す。
(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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ガラテヤ5章は「肉」と「霊」の対立を記すが、ヨハネ1章同様、パウロは古代のヘブライの世界観に基づき、人間そのものを「肉」と表現して「霊」つまり「神の霊」と対比する。近代人は「肉と霊」という表現から「〔人間の〕肉体と〔人間の〕霊魂の対立」をイメージしがちだが、パウロの意図は異なる。
創世記6章にある通り、古代のヘブライ人は人間それ自体を「肉」と表現したが、同様に「骨」も人間それ自体を指す場合があった。箴言14章30節「憐れみの心はその人自身にも周囲の人々にも『命(=幸福や安堵感や充足感)』をもたらすが、嫉妬心は骨の隅々に至るまでその人間全体を腐らせていく」。
創世記2章23節は「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と記す。ヘブライ人は人間を「肉」(同6章)と呼び、また「骨」(箴言14章30節、エゼキエル37章)とも呼ぶが、「骨」と呼ぶ時は「骨の髄まで」の意味合いがあり、アダムはエバの姿を見て「この者は何から何まで自分と一緒だ!」と喜んだ。
創世記2章22節はエバの創造を記す際、祭壇や都市を築き上げた時と同じヘブライ語を用いて、エバは細心の注意を払いつつ達成された主なる神の《苦心の作》でありエバの創造に「手抜かり」はないと示唆し、「女は男より劣るように創造されたからエバは蛇にだまされた」等の男尊女卑の発想を否定する。
(注)別エントリー「試論:エバの創造とマリアの誕生を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『幼子と女性を尊重する』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
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【問】なぜ受胎告知の際にマリアは、承諾の返答よりも先に「わたしは主のはしため」と再確認しましたか?
【答】マリアはそう前置きすることで、「わたしは神の御独り子の母となることを承諾しますが、決して『神のようになること』(創世記3章5節)を望むからではありません」と意思表示をしました。
【問】マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)と呼ばれる女性なのに、なぜ「主のはしため」と謙遜したのですか?
【答】もしも彼女が「自分は救い主の母だから息子と同じ扱いを受けたい」と思い上がったなら、神のようになりたいと思ってサタンにだまされた、エバの二の舞になるからです。
主の昇天後の五旬祭の日、弟子たちは聖霊降臨を経験したが、聖母だけは三十年以上前、受胎告知前後に聖霊の《降臨》を経験されていた(ルカ1章35節)。ルカ1章35節と使徒言行録1章8節のギリシア語動詞は同一で、これぞ聖霊降臨を前にして聖母が精神的支柱として別格扱いされていた理由である。
(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖霊の働きの徴を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ23章11節「あなたたちの中で最も偉い者は、仕える者であり続けなさい」ルカ1章38節「わたしは主のはしためです」ローマ5章17節「神の恵みと義の賜物を豊かに受けている人は唯一の主であるイエス・キリストを通して永遠の命を得て、サタンの罪と死による支配から自由になり王となる」。