試論:マタイ福音書の重要性を140文字以内で

【問】なぜキリスト信者はマタイ福音書に特別の注意を払う必要がありますか?
【答】それは山上の説教を含むからで、一コリント3章11節はイエス・キリスト以外には土台はないと記しますが、主御自身はマタイ7章24節以下で、「わたしのこれらの言葉」すなわち山上の説教こそ土台であると仰せです。

【追記】

【問】主イエスは「真理」(ヨハネ14章6節)を自称されましたが、聖書中で信者が肝に銘じるべき「真理」となる一節は、どれ?
【答】マタイ7章12節「あなた自身が他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなた自身が他の人に行いなさい」。隣人愛の実践こそが神への愛をあかしするものです。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:キリスト抜きのキリスト教を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6639

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

【問】主イエスが「律法」と呼ばれたマタイ7章12節の御教えこそが「真理」ですか?
【答】トビト4章15節は違う表現ながらこの「真理」に触れます。表現と程度の違いこそあれど古今東西の親がわが子にこの「真理」を教え込みました。全員がわがままを言い出したら最後この人間社会は成立しません。

(注)別エントリー「《キリストの律法》(マタイ7章12節)」も参照のこと。
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A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
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【問】キリストはパンを増やし湖の上を歩き病人をいやしたということですが、ではそのキリストは、御自分の弟子となった人々にも奇跡を行うことを要求されましたか?
【答】いいえ。キリストは預言や悪霊を追い出すことや奇跡ではなく、天の父の御心を行うことを要請されます(マタイ7章21節以下)。

【問】マタイ7章21節「わたしを『主よ主よ』と呼ぶ全員が天の国に入れるわけではない」23節「不法を働く者はわたしから離れよ」。「法」って何?
【答】12節で主イエス御自身が「これこそ律法」と呼ばれた「他の人からしてもらいたいことを全部あなたから他の人にしなさい」がそれに当たります。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

【問】では「天の父の御心」とは何ですか?
【答】「他の人からしてもらいたいことは全て、あなたから他の人にしなさい」(マタイ7章12節。一ヨハネ3章4節参照)のことで、一ヨハネ4章16節は「神は愛」「愛にとどまる人は神の内にとどまり、神も、その人の内にとどまってくださる」と説きます。

【問】一ヨハネ3章4節「罪とは、法に背くこと」の「法」って何?
【答】「法に背くこと」のギリシア語本文はアノミアで、この語は「ノモス(法)に反すること」の意味ですが、ノモスはマタイ7章12節では「律法」と訳され、「他の人にしてもらいたいことは全て、他の人にしなさい」を指しています。

(注)別エントリー「試論:一ヨハネ3章4節を140文字以内で」も参照のこと。
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【問】「狭い門」(マタイ7章13節)って、何?
【答】前節の《キリストの律法》(一コリント9章21節、ガラテヤ6章2節)と呼ばれる「他人からしてもらいたいことを全部あなたから他人にしなさい。これが律法であり預言者〔の教え〕」という御教えです。その重要性を多くの人が見過ごしています。

【問】「命に通じる門」の「命」って何?
【答】古代のヘブライ人にとって「命」とは申命記30章15節の通り、あらゆる幸福の総称ですが、ここでは「永遠の命」(マタイ25章46節)つまり天国の福楽を意味し、そこに至るためには、《キリストの律法》(同7章12節)に忠実である必要があります。

【問】主イエス御自身の御教えを通らなければ、というのが大前提ですか?
【答】ヨハネ福音書において主イエスは「命」(14章6節)「門」(10章9節)「道」(14章6節)等と自称されました。キリスト教である以上は、キリストが実際にお話しになった内容を含む四福音書が聖書の中で最優先です。

(注)別エントリー「試論:『門・道・真理・命』誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12045