試論:「売買できぬようにした」を140文字以内で

黙示録13章17節は。「地」つまり古代イスラエルの地を支配している「獣」の刻印がある者でなければ売買できぬようになると啓示する。これは、ローマに大反乱を起こしたユダヤで偽救世主が、ローマ皇帝の肖像と銘が入る貨幣(マタイ22章21節)の替わりに、自分の貨幣を発行すると暗示している。

(注)別エントリー「『旧約』の時代はいつの時点で終わったのか」も参照のこと。
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【追記】

ヨハネ5章43節で主は、自分はユダヤ人に受け入れられないが、将来、別の人物が現われて受け入れられると予告された。約四十年後、ローマへの大反乱のさなかに、シモン・バルギオラが主と同様の歓呼を受けて都に入城し指導者に納まった。やがて都と神殿は滅ぼされバルギオラも捕らえられ処刑された。

(注)別エントリー「ダニエル書9章の『七十週』預言」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論;『今の時代』を140文字以内で」も参照のこと。
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主の御降誕から第二神殿の滅亡までエルサレムに七人の「王」が君臨した。ヘロデ大王、アルケラオス、アンティパス、アグリッパ一世、アグリッパ二世がヘロデ王家の人で、ヘロデ王家のユダヤ退去後の独裁者ギスカラのヨハネが六人目に該当し、ローマ帝国に処刑されたシモン・バルギオラが七人目である。

(注)別エントリー「試論;『荒らす憎むべき者』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論;黙示録17章『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論;黙示録の『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論;黙示録17章『十本の角』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論;黙示録18章を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録16章を140文字以内で」も参照のこと。
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「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

(注)別エントリー「試論;『もろもろの天を通過』?を140文字以内で」も参照のこと。
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黙示録13章16節「右手や額に刻印を」は、古代のヘブライ人には周知の表現で、出エジプト記13章9節と16節や申命記6章8節に同様の記述があり、申命記11章18節では従順また雅歌8章6節では愛情表現とも関連している。「第二の獣」が自身への従順や愛情さえも強要する所業のたとえである。

雅歌8章6節は男女の愛情の証として「腕に印章を刻む」という当時の慣用句を用いる。神と神の民の関係を古代のヘブライ人は花婿と花嫁の関係に喩えたが、これを踏まえて黙示録13章を再考すると、「第二の獣」が「小羊」つまりキリストを真似て人々に自分への愛と崇拝を強要する行為の比喩と分かる。

(注)別エントリー「試論:『花婿と花嫁』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主イエスこそ真の花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のイスラエルは、神と神の民との関係をしばしば花婿と花嫁の関係にたとえた。洗礼者ヨハネは、イエスを「花婿」と呼んで自身は「花婿の介添人」と称した。主イエスを歓呼の裡に迎え入れながら数日で死に至らしめた都を、黙示録が「大淫婦」と呼んだ理由は、イエスこそ花婿に他ならないからである。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
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イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。

ヨハネの黙示録17章5節には「淫婦の母、地上のあらゆる憎むべきものの母である大バビロン」と書かれているが、ゼカリヤ書2章11節では、エルサレムの住民が「バビロンの娘」という表現で呼び掛けられている。当時のエルサレムの住民は、かつてバビロンに連行されて住み着いた人々の子孫であった。

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
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〔注〕別エントリー「七つの山々の都エルサレム」も参照のこと。
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黙示録21章1節は「最初の天と最初の地は過ぎ去った」と記す。詩編78編69節はエルサレム神殿の聖所を天地に喩えた。主イエスはマタイ5章18節で全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代は続くと仰せになり、ルカ21章22節でエルサレム滅亡で全てのことが実現するとも予告された。

古代のヘブライ人は詩編78編69節の通り、エルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。これを踏まえれば、主イエスのルカ21章33節の仰せ「やがて天地は滅びるであろうが、わたしの言葉は決して滅びない」の意味は、「エルサレムと神殿の滅亡後も、わたしの教えと信仰は生き続ける」である。

(注)別エントリー「試論:『最初の天地が過ぎ去る』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。

(注)別エントリー「試論:ルカ19章41節を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
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ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。

(注)別エントリー「試論:神の国の到来と『主の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5578