古代のヘブライ人の「正義と平和」

古代のヘブライ人の「正義」つまり「義」とは、サムエル上24章18節の通り善意を意味する。同じく「平和」とは、「あなたに平和」や「平和のうちに行きなさい」が挨拶の決まり文句であるように幸福を意味する。従って古代のヘブライ人の「正義と平和」とは、現代の日本語では《善意と幸福》である。

【問】山上の説教の「義に飢え渇く人は幸い」の「義」とは何?
【答】サムエル上24章18節「お前はわたしよりも義の人だ。わたしはお前に悪意を示したのにお前はわたしに善意を示してくれた」からも分かる通り、古代のヘブライ人の「〔神の〕義」とは現代の日本語でいえば《善意》を意味しています。

古代のヘブライ人にとって「平和」はあらゆる幸福の総称であり、「あなたに平和」はヘブライ人の挨拶の決まり文句だった。ルカ10章5節「この家に平和があるように」は、より長い形の挨拶(サムエル上25章6節)である。ヘブライ人は「平和に属する者」を言い表したい時に「平和の子」と表現した。

(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
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ガラテヤ5章22節は聖霊の賜物の一つに「平和」を挙げる。これは古代のヘブライ人にとっては戦争のない(終わった)状態を表す以外にも、人間関係の協調・一致・発展、個々の健康・幸福・繁栄、心の(霊的な)安定、暴動・反乱のない社会や国家の安寧など、物事が好転している状況の総称でもあった。

(注)別エントリー「試論:『地には平和』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『平和を実現する人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6272

ルカ10章6節「平和の子がそこにいるなら、あなたたちの願う平和は、その人にとどまる」と、マタイ10章13節「家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる」を比べると、「平和の子」とは、「平和〔の神の御教え〕を受け入れるにふさわしい人」だと分かる。

主イエスはルカ10章で、御自分の教えを受け容れることになる人々を「平和の子」とお呼びになった。イザヤ9章5(6)節ではメシアの称号の一つを「平和の君」と啓示し、またパウロはフィリピ4章9節で自分たちの神を「平和の神」と呼ぶが、ヘブライ人にとって「平和」は全ての幸福の総称でもある。

パウロは主イエスを何度も「平和の神」と呼んだ(一コリント14章33節、フィリピ4章9節、一テサロニケ5章23節等)。これはイザヤ9章5(6)節が、人間の「みどりご」として世に来られた神の御独り子を「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼んで預言したことを踏まえている。

聖パウロのガラテヤ書5章によれば、聖霊が働いている徴は愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・節制(22節〜23節)であり、聖霊が不在である徴は姦淫・わいせつ・好色・偶像礼拝・魔術・敵意・争い・そねみ・怒り・利己心・不和・仲間争い・ねたみ・泥酔・酒宴(19節〜21節)などである。

主イエスはヨハネ16章33節で、お話しになった理由を「あなたたちがわたしによって、平和を得るため」と説明された。平和という表現で福音書の時代の人々は個々の健康や幸福・協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など物事が好転している状況を総称した。

一コリント12章以下でパウロは霊的な賜物に関し論じた。14章33節は「神は混乱(無秩序)の神ではなく協調(平和)の神」と説き、集会中の発言は順番(27節、40節)になされるべきで複数人が別々の事柄を同時並行で語ることを禁じ(30節)、それは「主の命令」(38節)であると厳命した。

【問】マタイ6章33節「神の国と神の義」や同5章20節「あなたたちの義が律法学者たちやファリサイ派の義に勝らなければ」の「義」って、何?
【答】それらの「義」という訳語はギリシア語原文ではディカイオシュネーで、この語は同6章1節「人前で善行を見せびらかさないように」の「善行」です。

【問】主イエスはなぜマタイ5章「あなたたちは世の光」の後で「あなたたちの義がファリサイ派や律法学者の義に勝らなければ」と仰せになったの?
【答】イザヤ58章6節以下の通り古代のイスラエル人にとって「光」は善意の比喩で、サムエル上24章18節の通り「義(正しい)」も善意を意味します。

(注)別エントリー「『世の光』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/25882

【問】主イエスは「わたしは世の光」「あなたたちは世の光」などと仰せになりました。なぜ?
【答】「光」はイザヤ58章6節以下にある通り善意・温情・心配り・憐れみの業等の喩えで、人の心と表情を明るくさせ人々の心を温めます。「光」がなくなれば、人々の心と表情は暗くなり、心は冷え込みます。

マタイ5章で主は、「あなたがたは世の光」(14節)、「あなたがたの光を、人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)と仰せになり、行いを伴わぬ信仰など役に立たない(ヤコブ2章14節)ことをお話しになった。

【問】創世記のアブラム(アブラハム)の「義」に関する話の前後では彼と対比される存在として「ソドム」が登場しますが、なぜ?
【答】アブラムは、常に自分以外の他の人々に気を配る無私の人でしたが、逆にソドムの人々は、私利私欲の追求しか頭になく、そのためなら他人の迷惑など顧みませんでした。

【問】具体的には何?
【答】アブラハムはソドムの滅亡を思い止まらせようと、神なる主に何度も何度も請い願いましたが、同じ頃ソドムの人々は、アブラハムの甥ロトの家に乱入して当たり前のように物色し乱暴狼藉を働きました。アブラハムの義(善意)とソドムの人々の罪(悪意)とは、対極にあります。

【問】主イエスは神の国と神の義を求めよと説かれました。創世記15章はアブラムが義とされたと記します。なぜ?
【答】同14章で諸国の王が私利私欲のために戦った時、彼だけは人助けのために行動しました。神なる主は同15章の約束で、彼が目先の私利私欲で動く人ではないと、最終確認されました。

【問】天の星の数を彼に数えさせることが、なぜ、彼の義を確認することになるのですか?
【答】もし彼の中に私利私欲のかけらが少しでもあったならば、「わたしは遠い未来の自分の子孫の数のことなんかよりも、自分自身の幸福について具体的に今、目に見えるものが欲しい」などと主張していたはずです。