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試論:ルカ11章の「内側」を140文字以内で

「内側」を表すギリシア語が新約聖書で持つ特別な意味は二コリント4章で「土の器に納めた宝」(7節)「内なる人」(16節)に喩えられ、「イエス・キリストの御前に輝き心の内で輝く、神の栄光を悟る光」(6節)「イエスの命」(19節、11節)等と表現される「良心」=「真理」(2節)である。

【追記】

ルカ11章41節「あなたたちはただ器の中にある物だけを施しなさい。そうすれば〜」ヨハネ7章38節「わたしを信じる者は、〔旧約〕聖書に書かれている通り(詩編116編13節「救いの杯」イザヤ12章3節「救いの泉から水を汲む」等)、その人の内から生きた水が川となって流れ出るであろう」。

古代のヘブライ人は良かれ悪しかれ定めを受け入れることを「杯」(ルカ11章39節)の比喩で表した(22章42節等)。主が11章41節で、「杯」の「内側」と「施し」すなわち憐れみの業を関連付けた比喩を用いられる時、古代のヘブライ人は詩編116編「救いの杯」(13節、5節)を連想した。

確かに御受難の前に主はルカ22章42節で、「杯」という比喩を苦しみの定めという意味で用いられたが、古代のヘブライ人にとって「杯」は必ずしも苦難だけを指すものではなく、幸福の定めを指していることさえあった。詩編116編13節「救いの杯」16編5節「主こそわたしが杯に受ける分け前」。

主はルカ11章で「外側」「内側」という表現を用いられたが、同じ事柄をパウロは二コリント4章16節で「外なる人」「内なる人」と表現し、ガラテヤ5章では「肉」「霊」と表現して両者の違いを詳しく記す。ガラテヤ5章22節「霊の結ぶ実」は、ルカ11章41節「器の中にある物」を説明している。

詩編31編でダビデは、さまざまな意味で衰えてきた自分の肉体を「壊れた器」(13節)と表現した。また二コリント4章7節でパウロは、人間の「外側」つまり「肉」の部分を、「土の器」と表現した。古代のヘブライ人の世界観では人間の肉体は土から取られて土に返る(創世記3章19節)定めである。

主はヨハネ4章14節で「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と仰せになった。箴言18章4節「人間は心の奥底にある思いをつい口に出して喋ってしまうが、知恵の源から湧き出る御言葉は命の水が溢れる大河のようだ」。

イザヤ11章9節は、「水」で満たすように「大地は主を知る知識で満たされる」と記す。しかし2節によれば「知恵」「識別」「主を知ること」等は全て「主の霊」すなわち聖霊の賜物である。つまり「水」は聖霊の賜物を象徴的(比喩的)に表現しており、12章3節は神なる主を「救いの泉」と表現する。

主はヨハネ4章で御自分を「生きた水」の源にたとえられ、これはエレミヤ17章12節の預言と符合し同章では主に信頼する人を水に根を張った木にたとえる(7節以下)。ヨブ29章19節も「水際に根を張る木」という比喩で主の御教えに根ざす信仰の堅固さや持続性を表し、マタイ13章にも対応する。

(注)別エントリー「試論:『根がない人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7315

聖霊の七つの賜物という特別の恵みは、古代のギリシア語訳またラテン語訳のイザヤ書11章2節〜3節の記述に基づいており、【1】知恵(上智)【2】分別(識別)【3】思慮(賢慮)【4】剛毅(勇気)【5】〔主に関する〕知識【6】〔主に対する〕孝愛(信心)【7】〔主に対する〕畏敬などである。

(注)別エントリー「試論:『聖霊の働きの識別』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10196