箴言28章9節は、主なる神の御教えを聞き入れない人が主にどれほど願い求めようと聞き入れてもらえはしないと説く。同様にゼカリヤ7章13節「わたしがあなたにいくら呼びかけてもあなたが聞き入れないならば、あなたがわたしにいくら祈り願い呼びかけようとも、わたしはその祈りを聞き入れない」。
(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
主はマタイ7章21節で「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入る」24節で「わたしのこれらの言葉を行う者は、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と仰せになり、「山上の説教」こそ教えの重要箇所だと示唆された。
マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」の《選ばれない理由》をイザヤ65章12節は「呼んでも答えず、語りかけても聞かず、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの喜ばないことを選んだからである」と記した。「笛を吹いたのに踊ってくれなかった」(マタイ11章17節)。
イザヤ59章2節「あなたたちの悪こそが、神とあなたたちの間を隔て、あなたたちの罪こそが、神の御顔を隠させ、神があなたたちに耳を傾けられるのを妨げている」ヨハネ14章24節「本当はわたしのことなど愛してはいない者は、決して御父とわたしの言葉や掟を受け入れはせず守ろうなどとしない」。
マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」ルカ13章23節「救われる者は少ないのですか」27節「不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」マタイ6章33節「神の国と神の義を求めなさい」ヨハネ14章23節「わたしを愛する者はわたしの言葉を守り父とわたしはその人と住む」。
主はマタイ7章26節で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てる人に似ている」と教えられた。22章14節「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」とは、《わたしの教えを耳にしたことのある者は多いが、それを真摯に受け止めて日々実践している者は少ない》という意味である。
主イエスはマタイ7章14節では「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか」と教えられたが、ヨハネ10章9節では「わたしは門であり、わたしを通って入る者は救われる」同14章6節では「わたしは道・真理・命であり、わたしを通らなければ誰も父の許に行くことはできない」と仰せになった。
(注)別エントリー「試論:天の国の条件を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ7章で主は「狭い門から入りなさい」(13節)「命に至る門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない」(14節)と仰せになったが、詩編118編19節以下には「正義の門よ開かれよ。わたしは入って主に感謝しよう。この門は主の門だ。主に従う者はこの門から入る」とある。
マタイ7章は「門」という比喩で、「神の国」に入るための条件「神の義」(6章33節)を表現した。これは詩編118編19節以下「義の門よ開け。この門は主の門だ。主に従う者はここから入る」とともに、イザヤ26章2節「門よ開け。信仰を守って神の義に従う民が入れるように」とも関連している。
(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798