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試論:「放蕩息子の指輪と履物」を140文字以内で

エステル3章10節以下では王権の委任を象徴する印章(ハガイ2章23節参照)として、指輪が登場する。放蕩息子のたとえでは相続人(ローマ8章17節参照)としての権利回復を象徴する。ルツ4章7節では親族が本人に替わり責務を代行する場合の要件として、履物が登場する。やはり権利回復を表す。

(注)別エントリー「試論:『救い主と履物』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8897

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

【追記】

エゼキエル33章11節には「わたしは悪人が死ぬことを喜ばない。悪人が立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ。悪しき道から立ち帰れ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか」という主の仰せがあり、同18章と同様のおぼしめしが繰り返し伝えられ、人々に悪から離れて生きることを強く勧められた。

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5726

マタイ6章34節「その日の苦労はその日だけで十分」は有名である。ただし「苦労」と日本語訳されるギリシア語には「悪」「災難」の意味合いがあり、全てを失った放蕩息子が回心し父親の許への帰郷を思い立ったのと同様に、主は第一に「神の国と神の義」(33節)への回帰(回心)をお勧めになった。

(注)別エントリー「試論:『その日の苦労』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10779