月別アーカイブ: 2024年7月

試論:「その日の苦労」??を140文字以内で

マタイ6章34節「その日の苦労はその日だけで十分」は有名である。ただし「苦労」と日本語訳されるギリシア語には「悪」「災難」の意味合いがあり、全てを失った放蕩息子が回心し父親の許への帰郷を思い立ったのと同様に、主は第一に「神の国と神の義」(33節)への回帰(回心)をお勧めになった。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

【追記】

主は「神の義に飢え渇く人は幸いである。その人は満たされる」と仰せになったが、ルカ10章では自分を「義化」(29節)しようとして踏み込んだ質問をした律法学者に対して、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛(27節)と永遠の命(25節)は全て事実上重なっていることをお教えになった。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

(注)別エントリー「試論:隣人愛と『心の中で憎む』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10483

(注)別エントリー「試論:『わたしが与える水』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10708

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

マタイ22章は神の御前に立つためには「礼服」が不可欠と教える。詩編132編は9節で「正義を衣としてまとう」16節で「救いを衣としてまとう」と表現して「救い」すなわち神と共にある条件を、「正義」すなわち「神の義」(マタイ6章33節)とし、その具体例をコロサイ3章12節以下が教える。

マタイ22章「礼服」に関連して、パウロはコロサイ3章で、キリストに結ばれていたいと望む人々が「着る」つまり身に着けるべき事柄に関してとりわけ10節以下で論じ、5節から9節では脱ぎ捨てるべきものも説く。身に着けるべきは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、そして愛だとパウロは説いた。

主はマタイ6章33節で「神の国と神の義を求めよ」と仰せになり、また同22章では神の国で神の御前に立つために不可欠な「神の義」を、「礼服」にたとえられた。この「礼服」すなわち「神の義」とは何であるかについて、パウロはコロサイ3章で、キリストの弟子が身に着けるべきものとして説明した。

主はマタイ6章33節で、まず神の国と神の義(ディカイオシュネー)を求めるよう教えられた。1章19節はヨセフを義人(ディカイオス)と呼ぶが、この語は神の義を体現する人を指す。相手が幼子や女性だからといって馬鹿にした態度を取る男性もいるが、その点、ヨセフに関しては心配する必要がない。

箴言17章5節の後半は「他人の不幸を喜ぶ人は罰を免れない」等と訳される。古代のギリシア語訳はさらに「同情する人は憐れみを受ける」と続け、これはマタイ5章7節と同じ趣旨であり聖書の「憐れみ」とは他人の不幸を喜んだり笑ったり嘲ったり蔑んだりせず、ただ同情を寄せることであると説明する。

マタイ5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」はヨハネ13章「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」同14章「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、御父とわたしはその人のところに行って一緒に住む」等と同じことである。

レビ19章18節「あなたは自分自身を愛するように、他の人を愛さなければならない」マタイ7章12節「あなたは、他の人からしてもらいたいと思うことならどんなことでも、あなたから他の人にしなさい」ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい」。