試論:「婚約者の妊娠」を140文字以内で

レビ5章1節は、ある人が罪を犯したことは確実という証拠を持っていながら、その人のことを表ざたにしないなら、表ざたにしない者も罰を受けると記す。もしも婚約者が自分を裏切ったという確証を持っていながら、それでもヨセフが婚約者のことを表ざたにしなかったなら、ヨセフは義人ではあり得ない。

【追記】

マタイ1章19節は、婚約者の妊娠がヨセフにとって一目瞭然で疑いようのない事実だった一方、ヨセフにとって婚約者の貞潔もまた一目瞭然で疑いようのない事実であり、ヨセフは大混乱の中にあったがそれでも「婚約者が裏切った証拠は全くなく、彼女を告発するわけにはいかない」と決意したことを記す。

マタイ1章20節の本文は、婚約者の妊娠を知ったヨセフの心情をエントゥメオマイと表現する。通常この語は熟考・熟慮を表し内面の怒りや憤慨を表す可能性も含むが、ヘロデの激昂を表す2章の語トゥモオーと違い、あくまでも本人の内面に留まるもので婚約者に感情を直接ぶつけた可能性は否定的である。

(注)別エントリー「婚約者の妊娠を知った時のヨセフの心情」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3092

詩編15編3節は、神なる主と同じ住まいで暮らす人の条件として、周囲に対して中傷をせず、害を及ぼさず、小馬鹿にした態度を取らないことを挙げ、また2節では完全(=無垢)で、義を行うことを挙げる。主イエスの同居家族として、ヨセフが幼子や幼子の母を困らせる行動に出た可能性は皆無と言える。