試論:「しるしが目的ではない」を140文字以内で

ルカ1章66節は、洗礼者ヨハネの誕生に際し、人々が「この子はどんな人になるのだろうか」と言ったと記す。おおよそ三十年後、主イエスはマタイ11章11節で「洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」と仰せになった。しかしヨハネ10章41節は洗礼者が何のしるしも行わずに世を去ったと記す。

【追記】

主イエスはマタイ9章35節の通り「町や村を残らず回って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気や患いを癒やされた」。洗礼者はアンデレとヨハネとを主イエスに導いた際(ヨハネ1章)等を除けば、基本的には「ヨルダン川の向こう側」にとどまり、しるしは行わなかった(同10章41節)。

イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。

古代のイスラエルは、神と神の民との関係をしばしば花婿と花嫁の関係にたとえた。洗礼者ヨハネは、イエスを「花婿」と呼んで自身は「花婿の介添人」と称した。主イエスを歓呼の裡に迎え入れながら数日で死に至らしめた都を、黙示録が「大淫婦」と呼んだ理由は、イエスこそ花婿に他ならないからである。

(注)別エントリー「試論:『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895