旧約聖書の預言は第一義的に主イエス・キリストの到来及びその前後までの歴史的出来事をあかしするためのものであり、キリスト到来から約二千年後に生きる現代人が国際情勢を読み解くためのものではなく、その点では、旧約聖書の「預言」とノストラダムスの「予言」とでは意義も目的も全く違っている。
(注)別エントリー「試論:非キリスト教的な預言解釈を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21066
(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859
【追記】
ルカ24章のエマオでの御出現において主は、旧約聖書とは御自分について証しするものであり、実際その詳細について《全体》の説明を始めると、何時間あっても語り尽くせないことをお示しになった(27節)。主は以前にもユダヤの人々に対して同じ事柄をお話しになられていた(ヨハネ5章39節等)。
(注)別エントリー「試論:ヨハネ5章46節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7208