「肉の業」と「人類敵視の罪」

【問】ローマ皇帝ネロの時代のキリスト教弾圧の際、罪状は「人類敵視の罪」というものでした。なぜ?
【答】パウロがガラテヤ5章19節以下で「肉の業」(「肉」は人間そのもの。創世記6章12節参照)と呼んで非難した諸々の行為は、実は皇帝ネロと彼の取り巻き連中の日常と完全に合致していました。

(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649

古代のヘブライ人の世界観に従ってガラテヤ5章は「人間(人間それ自体)」を「肉」、「神〔に由来するもの〕」を「霊」と呼ぶ。ヨハネ3章6節も同様の対比を用い「霊から生まれた者は霊」の意味を、1章12節は「神の御言葉である主イエスは自分を受け入れる人に神の子となる資格を与えた」と記す。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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ガラテヤ5章は「肉」と「霊」の対立を記すが、ヨハネ1章同様、パウロは古代のヘブライの世界観に基づき、人間そのものを「肉」と表現して「霊」つまり「神の霊」と対比する。近代人は「肉と霊」という表現から「〔人間の〕肉体と〔人間の〕霊魂の対立」をイメージしがちだが、パウロの意図は異なる。

【問】パウロやヨハネによる「肉」と「霊」の対比は、何に由来しますか?
【答】創世記1章27節の通り、神は御自分に似せて人間を創造されましたが、その際に神は人間に「息」つまり《霊》を吹き込みました。他方、神には人間のような「肉」は存在せず神と人間を区別する際、「肉」は人間を指します。

【問】ではパウロが「肉の業」と表現する際、それは何の抑制もない欲望剥き出しの行為のことになるの?
【答】世界中の富と権力とが集積していたローマの皇帝にとっては「自分たちは人間としての欲望に正直なだけであり、それにとやかく言うのは、人類そのものを敵視しているのと同じだ」が本音でした。

【問】皇帝ネロの言い分は、いわゆる「屁理屈」では?
【答】キリスト教は最終的にローマ帝国の「国教」となりましたが、それまでに三百年以上の時間を要しました。ペトロやパウロや初代の信者たちと、「力こそが正義」を地で行く目の前のローマ帝国との関係は、まさに「水と油」に他なりませんでした。

ローマ帝国の闘技場では人間対猛獣や人間同士の格闘で多くの命が失われたが、人々は闘いに熱狂した。「力こそ正義、強者が世界を支配する」という理念の象徴がそれだったが、何かが間違っていると感じる人が徐々に増え、最終的に「頬を打たれたら反対の頬も向けよ」と語った人の教えを帝国は受容した。

二千年近く前、「力こそ正義」を地で行く最強の帝国に、属国の一つが反乱を起こした。反乱の約四十年前、その属国には長年待望されていた「メシア」が現われたが指導者たちは彼を認めず、彼は処刑されていた。反乱は鎮圧され国も都も神殿も滅亡したが約三百年後、帝国が処刑された男の教えを受容した。