試論:「母マリアだけ別格」を140文字以内で

主はマルコ3章35節で「神の御心を行う人こそわたしの兄弟・姉妹・母」と仰せになった。聴衆の男性は、自分に「兄弟」の資格はあるかと考えたであろう。また女性は、自分に「姉妹」の資格はあるかと考えたであろう。「母」の資格がある女性はルカ1章43節「わたしの主のお母さま」ただ一人である。

(注)別エントリー「マリアを『神の母』と呼ぶ聖書的根拠」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:「神の母であること」を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

主の昇天後の五旬祭の日、弟子たちは聖霊降臨を経験したが、聖母だけは三十年以上前、受胎告知前後に聖霊の《降臨》を経験されていた(ルカ1章35節)。ルカ1章35節と使徒言行録1章8節のギリシア語動詞は同一で、これぞ聖霊降臨を前にして聖母が精神的支柱として別格扱いされていた理由である。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖霊の働きの徴を140文字以内で」も参照のこと。
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《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節も御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ルカ1章43節でエリサベトは詩編110編1節を踏まえ、マリアを「わたしの主のお母さま」と呼んだ。

ルカ1章には「マリアの賛歌」があるが、内容は「神は高慢な者を敵とし、へりくだる人に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、ヤコブ4章6節、一ペトロ5章5節)と一致する。主の周囲でへりくだりがどれほど重視されていたかを、「主のはしため」(ルカ1章38節、48節)という言葉が象徴する。

(注)別エントリー「試論:『主のはしため』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ1章「マリアの賛歌」で、聖母は御自分を「身分の低い(タペイノス)」「はしため」と表現されたが、このギリシア語「タペイノス」は古代のギリシア語訳ヨブ記22章29節にも見られ、ヨブ記のヘブライ語本文では「目を伏せる」となるが、この所作はヘブライ人にとってへりくだりを象徴していた。

聖母は「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方ながら、「わたしは主のはしため」(38節)と自称されたが、ペトロとヤコブは「神はへりくだる人に恵みをお与えになる」と書いた。「神の御独り子の母」となられた女性のへりくだりと恵み(ルカ1章28節)とは、いかばかりだろうか?

(注)別エントリー「試論:初代教会と箴言を140文字以内で」も参照のこと。
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聖母マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方でありながら、「わたしは主のはしため」(38節)と自称されるほど高慢心のかけらもない謙遜そのものの方であった。従って、高慢心との訣別こそが「聖母マリアへの真の信心」へと踏み出す最初の一歩であるのは、至極当然である。

(注)別エントリー「試論:『救い主の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
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受胎告知の際マリアは「恵まれた方」(新共同訳)と呼ばれたが、「恵まれた」とは、

《〔神からの〕とめどもない好意を得た》

の意味で、古代ギリシア語訳箴言を参照すると比類のないこの《好意》は、彼女の「へりくだり」(箴言3章34節)と「善のみの追求」(同11章27節)に対する、恵みである。

(注)別エントリー「試論:『聖寵充ち満てるマリア』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:無原罪の御宿りを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖母崇敬の理由を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『聖母マリアは真の聖櫃』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ルカ11章28節を140文字以内で」も参照のこと。
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ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

ヨハネ1章14節は神の御独り子が恵みと真理に満ちて人間となられたことを記すが、ヤコブ4章6節と一ペトロ5章5節はともに「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と強調し、ルカ1章は「わたしは主のはしため」とへりくだった女性こそが御独り子の母となったことを特筆する。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『イエスとマリアの関係』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
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