ヘブライ4章12節以下では、人間の内面を鋭く切り分けて全てを白日の下にさらすという点で、神の御言葉の切れ味を「全ての両刃の剣よりも鋭い」剣にたとえる。主イエスもルカ12章49節で御自分の御言葉を「火」にたとえられたように、マタイ10章34節で御自分の御言葉を「剣」にたとえられた。
(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『地上に火を投ずる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
イザヤ49章2節はイエス・キリストを彷彿とさせる「主の僕(しもべ)」の姿に関し、「わたしの口を鋭い剣として」と預言し、50章4節ではさらに、「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え言葉を呼び覚ましてくださる」と続け、この「主の僕」が語る言葉を「鋭い剣」にたとえて預言をしている。
(注)別エントリー「試論:イザヤの預言と主の御受難を140文字以内で」も参照のこと。
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旧約聖書には、「鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉〔の力〕」を「剣」にたとえる言い回しが、いくつかの箇所で登場する。詩編55編22(21)節、57編5(4)節、59編8(7)節、箴言5章4節、12章18節等である。これらを踏まえて主イエスは「剣をもたらすために来た」と仰せになった。
主はマタイ10章34節で自分は剣をもたらすために来たと仰せになったが、剣は詩編55編22(21)節では「鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉」の比喩である。57編5(4)節や59編8(7)節も同様の比喩を用い、エフェソ6章17節では神の御言葉それ自体を「〔聖〕霊の剣」にたとえている。
主はマタイ10章34節で、自分は「剣(つるぎ)」を投ずるために来たと仰せになった。剣とは分断(ルカ12章51節)を行う象徴で、この「分断」の究極の意味はマタイ25章32節以下で説明されている。剣を用いた争い事を主が奨励されたわけではないことは同26章52節の御言葉から当然である。
主はマタイ10章37節で、自分より両親や息子や娘を愛する者は自分にふさわしくないと、仰せになった。ここで主は、別に両親や子供たちを粗末に扱うことを勧められたわけではない。ただ主は直前に、剣をもたらすために自分は来た(34節)と仰せになった。剣は分断(25章32節)を象徴している。
(注)別エントリー「試論:『主の祈り』と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:洗礼者ヨハネと最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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もちろん誰一人として、最後の審判で家族が分断されることなど望んでいるはずもない。既に旧約聖書の申命記において、家族で主の御言葉を学ぶことが強く推奨されている(6章6節〜9節)。それは主のおぼしめしに合致することであるのと同時に、家族全員を最終的な幸福(永遠の命)に導くからである。
(注)別エントリー「試論:『教えが授けられた理由』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:子供に教える行為の重要性を140文字以内で」も参照のこと。
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