試論:ルカ1章「主のはしため」を140文字以内で

主イエスはマタイ20章28節で御自分が人間となられた目的を「仕えられるためではなく仕えるため」と仰せになった。その三十年以上前、ルカ1章38節で救い主の母となることを告知された女性は「わたしは主のはしため」と答え、彼女が「救い主の母」という立場を的確に認識していることが記される。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

主イエスは神であり続けながら人間の肉体と魂を担い(ヨハネ1章14節)、割礼から神殿税まで人間の義務も全て担われた。両親に従う義務も当然担われた(ルカ2章51節、マタイ20章28節)。人へ模範を示されるため主は人となられたのだから、主が母親を軽視されたと考えることは道理に合わない。

旧約聖書には、神に奉仕するために選ばれた女性の存在が出エジプト記38章8節やサムエル記上2章22節や詩編68編25(26)節に記され、サムエル上2章によればそれらの女性が男性と「ともに寝る」ことは、人間が神から上質な献げ物を奪い取って神に残り物を献げることと同じく悪とされていた。

(注)別エントリー「試論:聖母と聖ヨセフの終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
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もし仮にそれが名もない女性だったとしても、人となられた神のために、ただただ手料理を三十年前後ものあいだ作り続けた女性がもしも実際に存在したとするなら、その一事のみをもって、その女性は全世界から崇敬を集めるに値する。まして彼女は、裁縫も洗濯も掃除もその他全ての神の家の家事を行った。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖母信心の端緒を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ナザレの聖家族を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヤコブ原福音書を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
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主は「いつでも戸を開けられるように目を覚ましていなさい」と仰せになり、普段から心の準備をすることが弟子としての心構えであると教えられた。主の母親となるべき女性がその少女期、当時最もしかるべき教育の場であった神殿の聖所で奉仕の日々を送ったという概念は、極めて蓋然性の高い話と言える。

(注)別エントリー「試論:ヤコブ原福音書を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖書の時代に神殿の処女は存在したのか」も参照のこと。
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(注)別エントリー「福音書の聖ヨセフと外典書の高齢者ヨセフ」も参照のこと。
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黙示録3章20節は有名な「わたしは戸口に立って叩いている」という仰せを記す。ヤコブ5章9節は「裁く方が戸口に立っておられます。裁きを受けることのないように、互いに不平を言うのをやめましょう」と教え、ルカ12章36節は「いつでも戸を開けられるように準備をしなさい」と主の仰せを記す。

(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
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「救い主」が世を救われる方法に関しイザヤは、「小羊」(53章7節)つまり代価として御自分をささげ、「しもべ」(42章、49章以下等)として人々に仕えると預言し、主もマタイ20章28節でそれを宣言された。救い主の母となることを承諾した女性が「主のはしため」を称するのは象徴的である。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
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