マルコ福音書は主の御降誕には触れないものの、6章3節で主イエスには母親がいたことを記し、10章45節では主の到来の目的の一つが「多くの人の身代金として自分の命を献(ささ)げる」つまり贖(あがな)いのためと記す。パウロもガラテヤ4章で母親の存在(4節)と贖い(5節)とに触れている。
(注)別エントリー「『《マリアの子》なら私生児』説は誤り」も参照のこと。
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詩編49章8(7)節は神に対し人間が贖(あがな)いの業を行うことができないと説く。それができるのは「人〔となられた神〕の子」だけであり、そのために主イエスは来られた(マタイ20章28節)。神は劣化できないため、神のままで人間の全てを担う必要があり、そのためにマリアが不可欠だった。
(注)別エントリー「試論:『神には劣化がない』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ19章は、ゴルゴタの主の十字架の傍らに聖母がおられたと記すが、聖母の内面がどのようであったかについては全く記述がない。しかしルカ2章35節はシメオンの預言として、「多くの人の心にある思い(34節の「逆らい」)があらわになるため、あなた自身も剣で心を刺しつらぬかれる」と記す。
(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。
(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。
主イエス・キリストは、人間たちに模範(ヨハネ13章34節)を示されるために、神であり続けながら(ヘブライ13章8節)人間の肉体と魂を担われた(ヨハネ1章14節)以上は、神として教えられた掟(申命記5章16節)を人間として自ら忠実に実践された(ルカ2章51節、マタイ20章28節)。
ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。
ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。
主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。
「平和」とはヘブライ語で幸福の総称であり具体的には、主イエスが準備(用意)された《御父の家》(ヨハネ14章2節)にて御父や御子イエスと一緒に住むことを指す。一コリント2章9節は「誰も見聞きせず誰の心にも思い浮かばなかったことを神は御自分を愛する者たちに準備(用意)された」と記す。
主イエスはヨハネ14章27節で「わたしの平和」を残され与えられると仰せになり、与える方法をコロサイ1章20節は「十字架の血によって」と記す。ヘブライ語で平和とは幸福の総称だが、具体的には、新しく創造された天・地・エルサレムの中で復活の体で生きること──《永遠の命》とはそれである。
(注)別エントリー「試論:『わたしの平和』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。行ってあなたたちの場所を用意したら、あなたたちの許へ戻って来て、あなたたちを迎える」黙示録21章2節「聖なる都、新しいエルサレムが、花婿のために着飾った花嫁のように用意を整えて、天から下って来るのを、わたしは見た」。
イザヤ65章17節以下では「新しい天・新しい地・新しいエルサレムの創造」が預言されるが、同書では42章以降、「主の僕(しもべ)」つまり救い主である、神の御独り子イエス・キリストに関する預言が続き、「新しい天・地・エルサレム」は救い主御自身の「復活の体」の創造と共に完成の時を見た。
黙示録21章16節以下では新しいエルサレムの巨大性が啓示される。これは当然、ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。もしなかったなら、あなたたちのための場所を準備しに行くとは言わない。あなたたちの場所を準備したらあなたたちの許に戻って来る」を反映している。
(注)別エントリー「試論:新都エルサレムの『用意』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスは御受難と御復活の間に「新しい天・地・エルサレムの創造」を準備され誕生させたが、イザヤ66章8節は「誰がこのようなことを見聞きしたであろうか。一つの国が一日で生まれ一つの民が一日で生まれることがあり得るだろうか」と預言する。「天の国は近づいた」の「天の国」とはこれだった。
(注)別エントリー「試論:『天の国は近づいた』意味を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『一緒に住む』どこに??を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスの御降誕は「肉の体」つまり人間としての誕生だったが、この世に来られた究極の目的が「贖(あがな)い」である以上、「上げられ(十字架上で顕示され)た」後の死と御復活によって悪魔の罪と死の支配を終わらせ人類に永遠の命と「霊の体」を準備して目的を達成したことの方がより重要である。
(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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