試論:キリスト不在のキリスト教を140文字以内で

一ヨハネ4章は信用してはならない人の特徴を、キリスト教を語っているようで実は世間に通じる話題だけで、主イエスが実際に教えられた福音書の御言葉を回避していることとした。キリストを棚上げしながら福音書以外の聖書の箇所を引用する目的は、キリストの代わりに自分自身が主役になるためである。

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『笛は吹かれたけれども』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神は誰を選ばれるのか』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

(注)別エントリー「試論:『預言を封印するメシア』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖書を研究する意味とは?を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ5章39節〜40節「あなたたちは〔旧約〕聖書の中に永遠の命があると考えて、〔旧約〕聖書を研究する。しかし、〔旧約〕聖書とは、わたし(=主イエス・キリスト御自身)についての証しをするものである。それなのにあなたたちは〔永遠の〕命を得るためにわたしのところに来ることをしない」。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:旧約聖書を調べる意味を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:預言者も見たかったもの?を140文字以内で」も参照のこと。
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箴言28章9節は、主が教えられた御言葉に耳を傾けないなら、いくら主に祈っても、主のおぼしめしには沿わないと教える。それだと、神を一方的に利用しようとしているだけで、全く信仰の名に値しない。主イエス・キリストが《神の御言葉》である以上、御教えを拒むことは神そのものを拒むのに等しい。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主イエスを見失うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主に聞き従うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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二テモテ3章でパウロは「終わりの時」の人々の姿を記した。自分本位で金銭を愛し、嘘をつき、神を畏れず嘲り、両親に従わず、恩知らずで、他人を侮り、情け容赦なく、強情で、中傷し、節度がなく、残酷で、善を行わず、裏切り、軽率かつ高慢、信仰を装いつつ実際は快楽を愛し、事実上は棄教している。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:二ペトロ2章の『偽教師』140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』【再投稿】」も参照のこと。
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(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148