試論:「背負い切れない数の掟」を140文字以内で

主イエスはルカ11章46節では「背負い切れない重荷を他人に負わせるが自分自身は指一本触れそうともしない」マタイ11章30節では「わたしの荷は軽い」と仰せになった。ファリサイ派と律法学者とはモーセの律法に「人間の言い伝え」を上乗せしたが、主イエスはマタイ7章12節に全て要約された。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

【追記】

神の国に入るためには「神の義」が不可欠であることを主は「礼服」という比喩で御説明された。コロサイ3章では「着る」べきものは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と挙げる。マタイ11章で主は「わたしは柔和で謙遜な者だから」(29節)「わたしの荷は軽い」(30節)などと仰せになった。

主はマタイ11章30節で、「わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い」と仰せになった。主が人々に求められるものとは、「神の義(正義)」と言えばどこか厳格な響きがするが、実際に「神の義」を構成するのは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛などの事柄である(コロサイ3章)。

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

主イエスはルカ11章42節以下で、神から与えられた律法に人間が自分たちの掟(昔の人の言い伝え:マルコ7章3節)を付け加え続けても、最も肝心な神への愛と隣人愛から思いが遠のくだけならば何の意味もないと教えられた。聖書の「正義」つまり神の義とは隣人愛や憐れみの業と事実上、同義である。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544