ヨハネ3章20節は、
「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れ、光の方に来ない」
と主の仰せを記す。それと対比される21節の「真理を行う者」の、
「真理」
とは、「その行いが神に導かれてなされた」という記述から明らかな通り、
《神に導かれてなされた善業》
に他ならない。
(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
ヨハネ8章34節「罪を犯す者は、皆、罪の奴隷である」32節「真理はあなた方を自由にする」ヘブライ2章14節〜15節「御自分に委ねられた者たちが人間である以上イエスも同じく人間としての全てを担われたが、死を司る悪魔を御自分の死によって滅ぼし悪魔の罪と死の支配から人々を解放された」。
主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。
エレミヤ10章10節は「主は真理の神」と記すがこの章では、自分では言葉を話せない偶像の神々と違い、イスラエルの神である主は御自ら、御言葉を発せられて真正な御教えを御自分の民にお話しになられる(申命記5章22節以下)という事柄を要約する表現として、「真理〔の神〕」が用いられている。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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エレミヤ10章10節は「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王」と呼ぶ。ヨハネ福音書で主イエスが御自身に関連して「真理」「命」「永遠の命」等の表現を頻用されること自体、御自身の神性の表明である。イエスに敵意を抱く人々からすると神に対する冒瀆であり、石打ちの刑に相当する事柄だった。
イスラエルの神である主は御自分の民に対して御自ら御言葉を発せられて御教えをお話しになり(申命記5章22節以下)、それこそが自分で言葉を話せない偶像の神と最も異なるとして、主をエレミヤ10章10節は「真理の神」と呼ぶ。主イエスはピラトに御自分が何者か「真理」の表現で端的に示された。
「真理(ギリシア語本文でアレテイア)とは何か」(ヨハネ18章38節)の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」ことがアレテイアとし、主はこれを「適切な答え」とされた(34節)。ヨハネ14章6節「わたしこそが道、真理、命」10章30節「わたしと父とは唯一のものである」。
(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節の『道』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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一ヨハネ5章は20節で「神の御子が来られ、私たちに真理である方を知る力を与えられました。私たちは真理である方の内に、またその御子イエス・キリストの内にいるのです」と記し、「この方こそ真理である神、永遠の命」と続け、御父と御子と聖霊(6節)の御三方を「真理」と呼び、唯一の神とする。
(注)別エントリー「試論:『御子に全て委ねられた』を140文字以内で」も参照のこと。
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