主イエスはヨハネ12章28節で、「父よ、御名の栄光を現して下さい」と仰せになり、すると天から声が聞こえた。これは申命記5章22節以下を彷彿とさせ人々はそれを思い起こしたなら慄然としたはずである。ただ群衆の反応は「雷が鳴った」「天使がこの人に話しかけた」等で、回心には至らなかった。
【追記】
主イエスはルカ12章49節で神の御言葉を「火」にたとえられた(エレミヤ5章14節参照)。御言葉に繰り返し接することで人の心は火が金属を精錬する如く清くなり純度を高める(ゼカリヤ13章9節参照)が、この比喩は、申命記5章22節以下の故事からも古代のイスラエルの人々になじみ深かった。
(注)別エントリー「試論:『焼き尽くす火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8710
主イエスはルカ12章49節で「わたしが来たのは地上に火を投ずるため」と仰せになられ、万軍の主の預言としてエレミヤ9章6節は「わたしは娘なるわが民を、火をもって熔かし、試す」と記すが、エレミヤ書では「主の御言葉」が随所(5章14節、20章9節、23章29節)で「火」にたとえられる。
古代のイスラエル人にとって、「火」が「主の御言葉」(エレミヤ5章14節等)や《人間に直に語り掛けられる神》を象徴するものであるのは周知の事柄だった。なぜなら、「燃える柴」の火の中から「わたしはある」という神がモーセに語り掛けられた、まさにそのことが彼らの信仰の原点だからであった。
たとえ自国の古典文学であっても本文の現代語訳だけで注釈が全くなければ、正しい理解に至るのは難しい。「火」は「主の御言葉」(エレミヤ5章14節等)の喩えであると教わらぬまま「地上に火を投ずる」「聖霊と火による洗礼」等々聞かされても、新約聖書の記述を正確に把握するのは至難の業である。
(注)別エントリー「試論:マタイ3章の二つの『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5795