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試論:ルカ11章41節の「器」を140文字以内で

ルカ11章41節の「器」は詩編31編13(12)節の通り人間を指し、「器の中にある物」は神が吹き込まれた「命」(創世記2章7節)である。「命」は申命記30章15節では「幸い」と同義で、「ただ器の中にある物を施せ」の真意は《あげ足取りをやめて隣人を幸福にすることだけ考えよ》である。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:なぜ『わたしは命』?を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

箴言15章4節「赦しを与える言葉は命の木」にある通り旧約の民は、他者に幸福や安堵を与える事柄を「命」と表現し、主なる神から命の息を吹き込まれた人間は他者に幸福や安堵を与えることができる、という信念を持っていた。故に主はルカ11章41節で他者に幸福や安堵だけを与えるよう命じられた。

(注)別エントリー「試論:『主にとって赦しも癒し』を140文字以内で」も参照のこと。
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詩編31編でダビデは、さまざまな意味で衰えてきた自分の肉体を「壊れた器」(13節)と表現した。また二コリント4章7節でパウロは、人間の「外側」つまり「肉」の部分を、「土の器」と表現した。古代のヘブライ人の世界観では人間の肉体は土から取られて土に返る(創世記3章19節)定めである。

主はルカ11章で「外側」「内側」という表現を用いられたが、同じ事柄をパウロは二コリント4章16節で「外なる人」「内なる人」と表現し、ガラテヤ5章では「肉」「霊」と表現して両者の違いを詳しく記す。ガラテヤ5章22節「霊の結ぶ実」は、ルカ11章41節「器の中にある物」を説明している。

「内側」を表すギリシア語が新約聖書で持つ特別な意味は二コリント4章で「土の器に納めた宝」(7節)「内なる人」(16節)に喩えられ、「イエス・キリストの御前に輝き心の内で輝く、神の栄光を悟る光」(6節)「イエスの命」(19節、11節)等と表現される「良心」=「真理」(2節)である。

ルカ11章41節「あなたたちはただ器の中にある物だけを施しなさい。そうすれば〜」ヨハネ7章38節「わたしを信じる者は、〔旧約〕聖書に書かれている通り(詩編116編13節「救いの杯」イザヤ12章3節「救いの泉から水を汲む」等)、その人の内から生きた水が川となって流れ出るであろう」。

古代のヘブライ人は良かれ悪しかれ定めを受け入れることを「杯」(ルカ11章39節)の比喩で表した(22章42節等)。主が11章41節で、「杯」の「内側」と「施し」すなわち憐れみの業を関連付けた比喩を用いられる時、古代のヘブライ人は詩編116編「救いの杯」(13節、5節)を連想した。

確かに御受難の前に主はルカ22章42節で、「杯」という比喩を苦しみの定めという意味で用いられたが、古代のヘブライ人にとって「杯」は必ずしも苦難だけを指すものではなく、幸福の定めを指していることさえあった。詩編116編13節「救いの杯」16編5節「主こそわたしが杯に受ける分け前」。

主はヨハネ4章14節で「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と仰せになった。箴言18章4節「人間は心の奥底にある思いをつい口に出して喋ってしまうが、知恵の源から湧き出る御言葉は命の水が溢れる大河のようだ」。

イザヤ11章9節は、「水」で満たすように「大地は主を知る知識で満たされる」と記す。しかし2節によれば「知恵」「識別」「主を知ること」等は全て「主の霊」すなわち聖霊の賜物である。つまり「水」は聖霊の賜物を象徴的(比喩的)に表現しており、12章3節は神なる主を「救いの泉」と表現する。

主はヨハネ4章で御自分を「生きた水」の源にたとえられ、これはエレミヤ17章12節の預言と符合し同章では主に信頼する人を水に根を張った木にたとえる(7節以下)。ヨブ29章19節も「水際に根を張る木」という比喩で主の御教えに根ざす信仰の堅固さや持続性を表し、マタイ13章にも対応する。

(注)別エントリー「試論:『根がない人』を140文字以内で」も参照のこと。
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聖霊の七つの賜物という特別の恵みは、古代のギリシア語訳またラテン語訳のイザヤ書11章2節〜3節の記述に基づいており、

【1】知恵(上智)
【2】分別(識別)
【3】思慮(賢慮)
【4】剛毅(勇気)
【5】〔主に関する〕知識
【6】〔主に対する〕孝愛(信心)
【7】〔主に対する〕畏敬

などである。

(注)別エントリー「試論:『聖霊の働きの識別』を140文字以内で」も参照のこと。
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箴言12章18節は「軽率な一言は人の心を剣のように刺し貫くが、知恵ある人の言葉は心の傷を癒す」、15章4節は「癒し(赦し)を与える言葉は命の木」と教え、相手に安堵や幸福を与える言葉を、「命」と表現する。古代のヘブライ人は、「鋭く人の心に迫る言葉〔の力〕」をしばしば「剣」に喩えた。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
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有名な「命の木」という表現は創世記と黙示録に登場し、主なる神が人間のために準備された何物かを指す言葉だが、箴言3章18節では知恵に関連してこの表現を用いて、それが幸福の源であると示す。11章30節「神に従う人の結ぶ実」13章12節「叶えられた望み」15章4節「癒しを与える言葉」。

創世記50章20節以下「『あなたたちはわたしに災いを企みましたが、神はそれを幸いに変えて多くの民の命を救うため、今あるようにして下さいました。恐れないで下さい。わたしが、あなたたちとあなたたちの家族を養いましょう』。ヨセフはこのように語り兄たちを安心させ、その不安を取り除いた」。

(注)別エントリー「試論:『柔和とは』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ13章「種を蒔く人」のたとえでは「根」が堅実や持続の象徴として登場するが、エレミヤ17章7節以下には「主に信頼する人は、水のほとりに植えられて根を張った葉が青々とした木」などと記され、同13節では「イスラエルの希望である主」を「生ける水の源」と呼ぶ(ヨハネ4章14節参照)。

(注)別エントリー「試論:『自分の十字架』って何?を140文字以内で」も参照のこと。
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