試論:ヨセフの終生童貞を140文字以内で

母親にとって育児は大仕事だが、それが《人となられた神の御独り子》ならなおさらで、マリアはとてつもない重責を担っていた。御父である神がヨセフに望まれたことはマリアとの間にイエスの弟妹をもうけることだろうか? むしろ御子のためにヨセフとマリアが終生童貞であり続けることではなかろうか?

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

【追記】

古代のイスラエルにおける第一の掟は、「あなたは心・精神・思い・力を尽くして、あなたの神である主を愛さなければならない」(マルコ12章30節、申命記6章5節)。この掟に鑑みて養父ヨセフは、自分自身と妻マリアから幼子イエスを愛する機会を片時でも奪う可能性のある行為を、完全に断念した。

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
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カトリックで聖母を指す表現「天の門」は、聖書では創世記28章17節にのみ登場し、同節は主がおられた場所を「なんと畏れ多い場所」「天の門」と呼ぶ。主を宿した「胎」(ルカ11章27節)であるマリアを、同様に《なんと畏れ多い女性》と感じるのは、古代のイスラエル人の感覚として当然である。

(注)別エントリー「試論:ルカ11章28節を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ福音書のギリシア語本文はヨセフをディカイオス(1章19節)と呼ぶが、ディカイオスは最後の審判で天国の福楽を確約されている人(25章37節)を意味し、ヨセフがもともと天の国にいてもおかしくないほどに無垢な(創世記6章9節)底抜けの大善人で天使のような人であったことを示唆する。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフと天使を140文字以内で」も参照のこと。
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