【問】ルカ1章68節「主はその民を訪れて解放し」71節「我らの敵、全て我らを憎む者からの救い」の意味は?
【答】ヘブライ2章13節以下は「御父から委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のまま人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するため」と説きます。
(注)別エントリー「『完全な神』が『完全な人間』を担われた」も参照のこと。
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【追記】
ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。
《人となられた「神の御独り子」》主イエス・キリストに関して、キリスト教では「半神半人」とは絶対に表現しない。それでは神としても人間としても中途半端(不完全)な存在だからである。むしろ「完全な(100%の)神」が「完全な(100%の)人間」を担った(引き受けた)存在と理解している。
(注)別エントリー「試論:『神には劣化がない』を140文字以内で」も参照のこと。
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神は本来、神以外の別物に変質(劣化)できない以上、「神が人となる」ためには神のままで人間としての全てを担う(引き受ける)必要があった。これをヨハネ1章14節は「〔神の〕御言葉は肉となる」として記し、ニケア・コンスタンチノープル信条は「おとめマリアよりからだを受け」として表現した。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250