試論:終末預言???を140文字以内で

【問】聖書から「終末預言」を連想する人々がいるようです。
【答】聖書のギリシア語には最後や最終を意味する語がありますが、例えば前後の見境なく浪費を続ける人や交通ルールを無視した運転を続ける人に「続けてたら最後は悲惨な目に遭うよ」と忠告しても、それは忠告であり終末預言にはなりません。

(注)別エントリー「試論:『終わりの時』の人々の姿を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「一ペトロ4章7節『万物の終わり』???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/25575

【追記】

旧約聖書の預言は第一義的に主イエス・キリストの到来及びその前後までの歴史的出来事をあかしするためのものであり、キリスト到来から約二千年後に生きる現代人が国際情勢を読み解くためのものではなく、その点では、旧約聖書の「預言」とノストラダムスの「予言」とでは意義も目的も全く違っている。

(注)別エントリー「試論:非キリスト教的な預言解釈を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

ルカ24章のエマオでの御出現において主は、旧約聖書とは御自分についてあかしするものであり実際その詳細について《全体》の説明を始めると、何時間あっても語り尽くせないことをお示しになった(27節)。主は以前にもユダヤの人々に対して同じ事柄をお話しになられていた(ヨハネ5章39節等)。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ5章46節を140文字以内で」も参照のこと。
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【問】ルカ15章「放蕩息子」の話で最も重要な瞬間はどこ?
【答】17節「我に返る」瞬間です。放蕩の限りを尽くし財産を無駄使いし何もかも失って初めて彼は、自分にとって本当に大切なものが何であるかに気付きましたが、その瞬間です。本当に大切なもののところへ向かって、彼は、戻り始めました。

ヨナ書で「大いなる都」と呼ばれたニネベでは、預言者ヨナによる滅亡の警告を受けて都の人々がこぞって神を信じ、直ちに回心して神の御前にへりくだり、粗布をまとって断食し、ひたすら神に祈願して各々が非を認め、悪の道から離れて不法を捨てた。主はそれを御覧になり、ニネベの滅亡を思い直された。

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主が御怒りになる理由』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10995

ルカ19章で、主はエルサレムのために泣かれた。確かに主の予告の通り、約四十年後に都は滅亡した。だが同じ都は数日後に主御自身を殺す都でもあった。それでも主は、ヨナ書で神がニネベを惜しまれた以上に、エルサレムのために泣かれた。エルサレムが決して自分の非を認めようとはしないためである。

イザヤ59章2節「あなたたちの悪こそが、神とあなたたちの間を隔て、あなたたちの罪こそが、神の御顔を隠させ、神があなたたちに耳を傾けられるのを妨げている」ヨハネ14章24節「本当はわたしのことなど愛してはいない者は、決して御父とわたしの言葉や掟を受け入れはせず守ろうなどとしない」。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。