ゼカリヤ7章13節「わたしが呼びかけても、彼らが聞かなかったように、彼らが呼びかけても、わたしは聞かない」マタイ7章21節「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の御父の御心を行う者だけが入る」23節「わたしはあなたたちを全く知らない」。
(注)別エントリー「試論:『人の行いに応じた報い』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「高慢(おごり・高ぶり)が人間にもたらすものとは」も参照のこと。
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【追記】
マタイ22章14節「神から招かれる者は多いが、神に選ばれる者は少ない」ヨハネ14章23節「本当にわたしを愛している人なら、わたしの言葉を守るはずだ。御父とわたしはその人のところに行って、一緒に住む」24節「本当はわたしを愛していない者は、決してわたしの言葉を守ろうなどとしない」。
(注)別エントリー「試論:『選ばれる瞬間』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ7章26節で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てる人に似ている」と教えられた。22章14節「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」とは、「わたしの教えを耳にしたことのある者は多いが、それを真摯に受け止めて日々実践している者は少ない」という意味である。
(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神」主イエスを表す称号であり主が直接人々にお話しになった御言葉を記したものが福音書である。福音書を顧みず他のものばかりに目を奪われ続けるならばイエス・キリストがわからなくなる。
(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ6章14節から15節「あなたがたが人を容赦するなら天の父もあなたがたを容赦されるが、あなたがたが人を容赦しないなら天の父もあなたがたを容赦されない」は、「主の祈り」(6章12節)の補足説明であり、従って「主の祈り」を唱える者はその都度14節から15節に思いを致すべきである。
(注)別エントリー「試論:『主にとって赦しも癒し』を140文字以内で」も参照のこと。
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最後の晩餐の際に主は、御自分の《愛の掟》においては隣人愛の実践をもって御自分への愛の実践とみなすと宣言された(ヨハネ14章21節等)。最後の審判では各自の行いに応じて裁かれる(黙示録20章13節、マタイ25章45節)ため、神からの赦しを得るには隣人を赦す以外ない(同6章12節)。
ヨナ書で「大いなる都」と呼ばれたニネベでは、預言者ヨナによる滅亡の警告を受けて都の人々がこぞって神を信じ、直ちに回心して神の御前にへりくだり、粗布をまとって断食し、ひたすら神に祈願して各々が非を認め、悪の道から離れて不法を捨てた。主はそれを御覧になり、ニネベの滅亡を思い直された。
(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ルカ19章41節を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。