【問】マタイ19章の「金持ちの青年」のエピソードは、主イエスが彼のような金持ちを拒まれたことを意味していますか?
【答】断じて違います。同じ話を扱うマルコ10章21節では、「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」と記し、むしろ主イエスが彼に好感を抱いておられたことを示唆しています。
【追記】
【問】ではなぜ、この青年は「悲しみながら立ち去った」のですか?
【答】彼は「永遠の命を得る」ことを、比較的容易な事柄であると考えていましたが、そこに到達するためには自分自身の財産が邪魔をしている、と知らされたからです。逆に言えば、主の御教えを彼は素直に受け止めていたことになります。
【問】この「金持ちの青年」は、「永遠の命」を得ることができたでしょうか?
【答】彼はモーセの律法の掟を、彼自身の言葉によれば「そういうことは全て守ってきました」と言っています。また悲しむほどに主の御言葉を真面目に受け止め、決して適当に聞き流して「愛想笑い」したりなどしませんでした。
主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは真理」と仰せになりピラトの尋問の際も「真理」という語を使われたが、この語は、旧約聖書で「まこと」と日本語訳されるヘブライ語に対応し、意味も漢字の「真、実、信、誠」に対応する。従って「嘘も方便」や「面従腹背」(マタイ7章21節)は認められない。
(注)別エントリー「真理(まこと)の神」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246
主はマタイ10章26節で、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」と仰せになった。神の御前で隠し事はできないという同じ事柄をローマ2章16節も説くが、後者は「人々の隠れた事柄を神がキリスト・イエスを通して裁かれる日」と関連付けている。
主イエスはマタイ6章で、施し・祈り・断食は人目に付かないようにと命じられ、天の御父である神は全て御存知だと仰せになった。箴言15章3節「どこでも主の御目は注がれ善人も悪人も見ておられる」詩編90編8節「〔主よ、〕あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれる」。
主はマタイ18章10節で、人間と神との連絡を行う天使の存在に言及され、たとえ幼子が言語や思考や体力や行動の面でおぼつかない存在であっても、幼子の非力を侮り良からぬ行動に出る者については全てを天使が逐一、神の御前で報告し、神は全てを御存知であると仰せになった(マタイ6章6節参照)。