神様と大人と子供

【問】大人の目から見ると子供は、遊園地や買い物の時には大人に付きまといますが、真面目な話を聞かせようとすると途端に退屈そうな顔をします。
【答】そういう大人だって神様の目から見れば、奇跡的な癒しや恵みの話を聞くと神様に頼ろうとしますが、真面目な話になると途端に退屈そうな顔をします。

【問】主が湖上を歩かれる御姿を見てペトロは自分もと言い出し、途中で怖くなって「信仰の薄い者」と主に叱られました。信仰が厚ければ沈まないの?
【答】自分も湖上を歩きたいというペトロの発想それ自体に対して、「薄い」すなわち軽薄なものとして主は退けられました。信仰は、奇術ではありません。

一ペトロ2章の冒頭では、霊的な成長とは悪意・偽り・偽善・ねたみ・悪口を捨て去ることと示唆し、使徒言行録8章では、魔術師シモンが聖霊のしるしを金で買おうとしてペトロに非難された。主イエスもマタイ7章22節以下で預言や奇跡や悪霊を追い出すことより悪を行わないことが重要と仰せになった。

【問】キリストはパンを増やし湖の上を歩き病人をいやしたということですが、ではそのキリストは、御自分の弟子となった人々にも奇跡を行うことを要求されましたか?
【答】いいえ。キリストは預言や悪霊を追い出すことや奇跡ではなく、天の父の御心を行うことを要請されます(マタイ7章21節以下)。

【問】マタイ7章21節「わたしを『主よ主よ』と呼ぶ全員が天の国に入れるわけではない」23節「不法を働く者はわたしから離れよ」。「法」って何?
【答】12節で主イエス御自身が「これこそ律法」と呼ばれた「他の人からしてもらいたいことを全部あなたから他の人にしなさい」がそれに当たります。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
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【問】では「天の父の御心」とは何ですか?
【答】「他の人からしてもらいたいことは全て、あなたから他の人にしなさい」(マタイ7章12節。一ヨハネ3章4節参照)のことで、一ヨハネ4章16節は「神は愛」「愛にとどまる人は神の内にとどまり、神も、その人の内にとどまってくださる」と説きます。

主イエスは福音書で何度も、非常に小さな幼児を模範として人々にお示しになった。自分一人では足取りもおぼつかないような幼児は、他人をつまずかせようとして障害物を置いたり(レビ19章14節)他人を陥れようとして落とし穴を掘ったり(箴言26章27節)といった悪だくみを行わないからである。

(注)別エントリー「試論:『無抵抗の相手への悪意』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ18章で、「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない」と仰せになり、「心を入れ替える」(3節)と「自分を低くする」(4節)の二つが、子供のようになるために必要であると教えられた。弟子たちは詩編131編を歌うたび以前から学んでいたはずである。

主はマタイ18章10節で、人間と神との連絡を行う天使の存在に言及され、たとえ幼子が言語や思考や体力や行動の面でおぼつかない存在であっても、幼子の非力を侮り良からぬ行動に出る者については全てを天使が逐一、神の御前で報告し、神は全てを御存知であると仰せになった(マタイ6章6節参照)。

(注)別エントリー「試論:『他人の弱みに乗じない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7371

主はマタイ18章3節で、心を入れ替えて幼子のようになるように強く弟子たちへお命じになり、他方5章48節では、天の御父と同様に、皆も「完全」となるように主はお勧めになった。古代のギリシア語創世記では「完全」というこのギリシア語が、6章9節においてヘブライ語の「無垢」に対応している。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

主はマタイ18章6節以下で、無垢な信仰を持つ子供をつまずかせる者は不幸であり厳罰は必至だと示唆された。詩編37編23節以下は主が御旨にかなう道を人間のために準備され、また人間の手をとらえ歩みを定めておられると記す。子供をつまずかせる(御旨から外れさせる)行為は絶対に容認されない。

レビ記19章には18節に有名な隣人愛の掟があるが、それに先立つ箇所には隣人愛に反する様々な行為を禁じる掟が列挙される。14節では、耳の不自由な人がいる前でその人が聴こえないのをいいことに悪口を言う行為と、目の不自由な人が歩いて行く方向に障害物を置いて邪魔をする行為とが禁じられる。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「試論:『理由のない憎しみ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6468

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8012

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

主はマタイ18章で、「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない」(3節)また「自分を低くして子供のようになる人が天の国では一番偉い」(4節)と仰せになられ、「心を入れ替える」「自分を低くする」の二つが子供のようになるために必要な事柄であると説かれた。

(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8781

(注)別エントリー「試論:エフェソ4章『新しい人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5730