試論:ハンナと「マリアの賛歌」を140文字以内で

ルカ1章の「マリアの賛歌」がサムエル上2章の「ハンナの祈り」を踏襲しているのは歴然だが、この二人に共通する思いは「この子は、主の特別の御心によって授かった子ですので、わたくしもこの子を、主の御心に御献(ささ)げいたします。それゆえこの子は、命ある限り主に献げられた者です」である。

【追記】

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。

ヨハネ19章は、ゴルゴタの主の十字架の傍らに聖母がおられたと記すが、聖母の内面がどのようであったかについては全く記述がない。しかしルカ2章35節はシメオンの預言として、「多くの人の心にある思い(34節の「逆らい」)があらわになるため、あなた自身も剣で心を刺しつらぬかれる」と記す。

(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

出エジプト記12章では、イスラエルの人々がファラオの支配から解放される代価となった小羊の存在に言及する。ヨハネ1章29節では、十字架において世の人々が罪の支配から解放される代価となるはずの主イエス・キリストの存在について、洗礼者ヨハネが「神の小羊」と呼んで、注意を喚起したと記す。

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章で洗礼者は主イエスを「神の小羊」(29節、36節)と呼んで周囲に注意喚起したが、ペトロは第一の手紙1章19節で「きずや汚(けが)れのない小羊のようなキリスト」と呼び2章22節ではさらに「罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」とイザヤ53章9節を引用し説明する。

主の御受難を預言したイザヤ53章7節では、出エジプトの代価となった「小羊」(出エジプト記12章3節等)を想起させる一方で、「屠(ほふ)り場に引かれる」と表現してイサクの犠牲の身代わりとなった羊(創世記22章13節)をも想起させ、主の御受難が人々の身代わりであることを再認識させる。

詩編49編8(7)節は神に対し人間は贖いの業を行うことができないと記す。マタイ20章28節で主イエスは、「人の子(人となった神の独り子)」が世に来た目的とは、御自身が担っている「人間としての全て」を「身代金(詩編49編8節と同表現)」として贖いの業を行うためであると、宣言された。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

黙示録7章16節はイザヤ49章10節を踏襲することで洗礼者が言及した(ヨハネ1章)

「〔神の〕小羊」

とイザヤ書の

「主の僕(しもべ)」

が同一人物であると再確認させ、

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た」
(マタイ20章28節、マルコ10章45節)

という事柄をも再確認させる。

ヨハネ1章29節「世の罪を取り除く神の小羊」の「取り除く」に当たるギリシア語は、一ヨハネ3章5節にも登場し、その前後では隣人愛の実践を奨励するが、同じ表現をエフェソ4章31節も用い、主に応えて信者が取り除くべき事柄を「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりを全ての悪意と共に」とする。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

エフェソ4章の後半では「神にかたどって造られた新しい人」として生きるためとして「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。