試論:聖母と「贖(あがな)い」を140文字以内で

マルコ福音書は主の御降誕には触れないものの、6章3節で主イエスには母親がいたことを記し、10章45節では主の到来の目的の一つが「多くの人の身代金として自分の命を献(ささ)げる」つまり贖(あがな)いのためと記す。パウロもガラテヤ4章で母親の存在(4節)と贖い(5節)とを関連付ける。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

詩編49章8(7)節は神に対し人間が贖(あがな)いの業を行うことができないと説く。それができるのは「人〔となられた神〕の子」だけであり、そのために主イエスは来られた(マタイ20章28節)。神は劣化できないため、神のままで人間の全てを担う必要があり、そのためにマリアが不可欠だった。

神が人となられた(ヨハネ1章14節)事をニケア・コンスタンチノープル信条は「おとめマリアよりからだを受け」とする。神は単純に人間へ変化(変質)したのではなく、神のままで「人間としての全て」を担った(引き受けた)。神は本来、神以外の別物へじかに変化(変質・劣化)する事などできない。

古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。

「神が人となられた」と聞くと現代人は単純に「神が人間に変化(変質)された」と捉えがちだが、古代の旧約の民は絶対にそうは理解しなかった。なぜなら「わたしはある」(出エジプト記3章14節)という神の御名に含まれるヘブライ語の動詞「ある」には、変化(変質)のニュアンスはないからである。

古代のイスラエル人にとって「肉」という表現は「人間」を指す場合があった(ヨハネ1章14節等)。マルコ7章20節以下で主イエスが「人から出て来るものこそ人を汚す」と注意を促された諸悪と、ガラテヤ5章19節以下でパウロが「肉の業」と呼んで避けるように促した諸悪が同様なのは当然である。

(注)別エントリー「試論:『言は肉となって』???を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ19章は、ゴルゴタの主の十字架の傍らに聖母がおられたと記すが、聖母の内面がどのようであったかについては全く記述がない。しかしルカ2章35節はシメオンの預言として、「多くの人の心にある思い(34節の「逆らい」)があらわになるため、あなた自身も剣で心を刺しつらぬかれる」と記す。

(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7807