マルコ7章の通りファリサイ派の人々は、神が授けられたモーセの律法の多数の掟に加えて、「昔の人の言い伝え」と呼ばれる人間由来の多数の掟を皆に課した。背負い切れない重荷と化した掟の数々に、人々は自分の落ち度を指摘されるよりはとばかりに皆で互いの粗探しを始めたが、そこに隣人愛はあるか?
(注)別エントリー「試論:『背負い切れない数の掟』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
主イエス・キリストはマルコ7章の最初の部分でファリサイ派の最大の問題点を指摘された。それは彼らが「言い伝え」を過度に重視していることで、本来モーセの律法に対して副次的存在だった「言い伝え」がいつしか律法と同等以上にまで扱われ、しかも隣人を圧迫するための口実と化していた事実である。
(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
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主イエスはルカ11章46節では「背負い切れない重荷を他人に負わせるが自分自身は指一本触れようともしない」マタイ11章30節では「わたしの荷は軽い」と仰せになった。ファリサイ派と律法学者とはモーセの律法に「人間の言い伝え」を上乗せしたが、主イエスはマタイ7章12節に全て要約された。
(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ11章30節で、「わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い」と仰せになった。主が人々に求められるものとは、「神の義(正義)」と言えばどこか厳格な響きがするが、実際に「神の義」を構成するのは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛などの事柄である(コロサイ3章)。
(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
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